インタビュー


スマートさに加えて泥臭さもあった日産野球部
日産野球部の特徴として「スマート」と「ひたむき」を挙げるOBは少なくありません。相手チームを分析し、緻密に積み上げた戦略で挑む一方、プレーにひたむきに取り組み、常に全力疾走を怠らない。そんな日産野球部スピリットの礎を築いた一人が白鳥 重治さんです。1978年に入社した白鳥さんは、静岡高校3年生のときに1973年の甲子園で準優勝を果たしました。早稲田大学でも活躍し、1年春には六大学リーグで優勝を経験するなど、陽の当たる舞台を歩み続けてきました。
日産に入社してからは強打の外野手として活躍し、1984年に日産が都市対抗で初優勝を果たした際には主将を務めました。現役引退後は本社野球部のコーチに就任。2002年には株式会社ゼロへ転籍し、中国現地法人社長として16年間にわたり現地ビジネスを牽引しました。2023年まで在籍した後、2024年1月には現職であるフジトランスコーポレーションの顧問に就任しています。そんな白鳥さんとともに、日産野球部の原点を振り返りました。

小さい頃からずっと野球一筋で過ごしてきた私にとって、日産野球部での生活はその集大成と言えるものでした。
高校3年生の時、静岡高校で甲子園に出場し準優勝を果たし、大学時代は早稲田大学で法政大学の江川卓選手をはじめとした有力選手たちとしのぎを削りました。ただ、大学時代は体調を崩した時期もあり、プレーするのが苦しい時期もありました。それでも、野球への情熱は冷めることはなく、大学卒業後も野球を継続することが私の夢でした。ですから、日産への入社が決まり、野球部に入部した時は、非常に嬉しかったのを覚えています。私が入社した1978年当時、日産野球部に全国優勝の経験はありませんでしたが、成長株のチームとして注目を集めていました。「技術の日産」の企業イメージと同じくスマートさのあるチームなのに、常に全力疾走を怠らない泥臭さもありました。
都市対抗野球本大会には出場していましたが、1978年から激戦区である神奈川地区に所属することになり、ENEOSや東芝、日本鋼管、三菱ふそう川崎、いすゞ自動車など、全国優勝を目指す強豪がひしめく中で、本大会に出場すること自体が大きなチャレンジでした。
社会人野球のレベルは想像以上に高く、プロ野球選手と肩を並べるような実力を持った選手が多くいました。私もその中で活躍することを目指していましたし、実際に社会人野球からプロにドラフトで選ばれ、即戦力として活躍する選手も少なくありませんでした。
社会人野球の厳しさが人としても鍛えてくれた
社会人野球は学生時代とは全く違う厳しさがありました。練習は過酷で、大学野球のように100人以上の選手がいるわけではなく、約30人の選手で活動していました。球拾いや練習準備も、選手全員で行う必要があり、チーム全員の協力と規律が求められました。何よりも、社会人野球の選手たちは皆、野球一本で生きてきた人たちばかりで、野球への覚悟が学生と違いました。また、新人が4人入れば、同じ数の選手が引退しなければならないという厳しい現実もあります。プロ野球と違って他チームへの移籍がほとんどないため、結果を出せなければそのまま野球からの引退を意味します。常に「生き残り」をかけて必死にプレーするのも社会人野球の特徴のひとつです。
都市対抗野球の盛り上がりは本当に凄かったです。スタジアムの熱気は言葉では表現しきれません。栃木工場からもバスで応援に来てくれ、後楽園球場に2万人以上の従業員が集まることもありました。また、都市対抗決勝のときは、通常なら絶対止めてはいけない工場の稼働を止めてまで、多くの社員が応援に駆けつけてくれました。社員とその家族が一体感を出して一緒に応援できるのが社会人野球ならではの魅力です。日産の応援団は、優秀賞を受賞したこともあり、その応援の力強さは選手としても大きな励みとなりました。
「日産」という企業、そして横須賀市を代表してプレーしているという意識を常に持ちながら、応援してくれる人々に対する感謝の気持ちも強く持っていました。社歌が流れると、身震いがするような感覚で、これを経験した人は、一生忘れられないと思います。

都市対抗野球予選時期は、当時現金手渡しだった一時金支給の時期と重なり、もし予選で敗退すれば、会社まで取りに行くのが非常に気まずかったことを覚えています。野球部一同で感謝の気持ちを込めて横浜工場に慰労に行った際には、皆に喜んでもらえました。従業員の方々にとっては、野球部員を身近に感じて頂くと同時に、彼らからの期待を感じたので、練習にますます力が入りました。

第55回都市対抗野球大会 横須賀市・日産自動車が初優勝:白鳥主将のささげる黒獅子旗とともにグラウンドを1周する横須賀・日産自動車チーム=後楽園球場で
代打に活路を見出した野球人生
入社1年目から私は外野を守り、3番打者としてプレーしましたが、特に忘れられないのが日本鋼管の木田勇投手との対戦です。木田投手は非常に素晴らしいピッチャーで、速球はキレがあり、カーブは魔球のように消えていくような投球でした。彼が毎回19奪三振という新記録を打ち立てた試合で、私は3三振を喫しました。その後、木田投手は日本ハムファイターズに入団し、22勝8敗4セーブ、225奪三振という素晴らしい成績を収め、新人王とMVPを獲得しました。
私はベテランになってからは、代打に回ることになりました。代打は、プレッシャーのかかる場面で打てばヒーローになる役割です。代打として打席に立つとき、ネクストバッターズサークルでは足が震えるほど緊張するものの、実際に打席に入ると集中力が極限まで高まり、観客の声も聞こえなくなる瞬間がありました。そんな時は「打てる」と確信していましたね。ただ、その一方で、打てなくても仕方がないというリラックスした気持ちもあったので、相反する心構えで打席に入ったのを覚えています。
1983年からは日産野球部のキャプテンを務めました。チームには一流のアマチュア選手が揃っており、プロフェッショナルとしての意識が高いため、チームを一つにまとめることは簡単ではありませんでした。
私がキャプテンとして意識していたのは、相手を尊重し、気持ちや考え方を大切にすること、そして自分の考えや行動に自信を持つことです。その役割は多岐にわたり、特に若い選手には厳しく指導することもありましたが、感情的に怒ってしまうと伝わらないことを常に心掛けていました。初優勝した1984年のシーズンでは、「試合に出ないキャプテン」とメディアに言われましたが、私は全く気にせず、チームをまとめたキャプテンとしての達成感をしっかりと感じることができました。
初優勝のご褒美で得た米国遠征
1985年4月、日産野球部の初優勝を記念して、米国への遠征が決まり、ハワイ、ロスアンジェルス、テネシーを訪問しました。シーズンが始まっていたこともあり、地域の大学チームと対戦しました。その後、現地で歓迎会を開いてもらい、英語で交流を深める貴重な体験ができました。米国の選手たちは、日産野球部の規律正しいスタイルに驚いていたことと思います。特にドジャーズスタジアムでの経験は素晴らしく、メジャーリーグの試合のオープニングセレモニーとして、オーロラビジョンに自分たちの名前が映し出されて、一人一人が紹介された瞬間は今でも忘れられません。
引退後は、日産の物流部門に勤務しました。ビジネス用語がわからず、最初は苦労しましたね。それでも、野球を通じて培ったコミュニケーション力や人脈、そして瞬時に戦況を把握して判断を下す力が、ビジネスにおいても役立ちました。キャプテンとしての経験が、相手の表情や態度を観察する習慣を養い、そのおかげで仕事でも相手の意図を理解する能力が高まったと思います。

日産を退社し、物流会社に転籍後、私は約16年間中国で仕事をしていました。言葉が通じない環境でも、野球で培った「瞬時の判断力」や「相手の心情を理解する力」を活かし、ビジネスに取り組みました。その中でも、忘れられないエピソードがあります。それは、中国で少年野球の指導を手伝った時のことです。試合中に心細そうな表情をしていた選手が私を見つめていたので、身振り手振りで「思いっきりやれ!」と伝えました。すると、センター前ヒットを打ち、ベンチに戻ってくると泣きながら「シェイシェイ(ありがとう)」と繰り返していました。その姿に、私も思わず涙が出ました。

第56回都市対抗野球大会 開会式で選手宣誓する日産自動車の白鳥主将=後楽園球場で
日産野球部への思いは変わらない
日産野球部は、私にとって特別な存在です。休部が決まった最後の大会には、中国から急遽日本に帰国し、最後の試合を見届け、復活を聞いた時は心から嬉しく思いました。社会人野球は学生野球とは違う厳しさがあるため、新チームが結果を出すのは簡単ではないでしょう。しかし、モチベーションを維持し、挑戦の気持ちを持ち続けることが重要だと思います。
私はOBとして、新チームの首脳陣として選ばれた伊藤監督と四之宮コーチを信頼しています。彼らには、伝統に縛られることなく、自分たちのスタイルで成果を積み重ねていってほしいと願っています。私は、新生日産野球部を静かに見守りたいと思いますが、私にできるサポートがあれば、どんなことでも応援したいと思います。
そして最後に、私が現役時代に頑張れたのは、従業員の皆さんの応援があったからこそです。社員全員が一体感を感じられる場所を、再び作り上げていけるよう私もOBの一人として、支援していきたいと思います。
1985年に日産野球部が米国遠征した際に対戦したチームの中には、日産に入社した人もいました。北米日産(NNA)で働くPete Robさんもその一人。Robさんから野球部に熱いメッセージが届いています。
「私たちに示してくれた野球への情熱と、対戦相手への敬意を胸に、頑張れ、日産野球部!」
北米日産(NNA)社員のPete Robさんは、1985年の米国遠征で日産野球部が対戦したチームの一員でした。今回、日産本社野球部の復活に際してPeteさんからメッセージが届きました。Peteさんは、ミドル・テネシー州立大学野球チームに所属し大学卒業後、NNAに入社し、デカード工場で28年間勤務。まもなく定年を迎える予定です。

1985年当時、私は18歳で、自動車に詳しいわけではありませんでしたが、「300ZX」という高品質で誰もが欲しがるクルマのことは知っていました。残念ながら私は試合に出場したわけではありませんでしたが、ウォーミングアップから彼らの動きに驚かされたことを鮮明に覚えています。全員が整然と規律正しく動き、監督はフィールドの端で腕を組みながら選手たちの動きを確認していました。彼らがどれだけ野球をリスペクトしているのかが伝わってきました。日産がテネシー州スマーナ市に工場を設立したのは1983年です。彼らは日本を代表していただけではなく、米国で始まったばかりのパートナーシップをも代表していたのですから、大きな責任を背負っていたのだろうと思います。彼らは国と会社の両方を代表して素晴らしい野球を見せてくれました。
私は大学卒業後に、デカードの北米日産会社(NNA)に入社しました。製造、品質保証エンジニアリング、部品品質エンジニアリングに携わり、もうすぐ定年を迎えようとしています。野球への情熱も消えることはなく、2人の息子の成長とともに少年野球を12シーズン、中学・高校野球を6シーズン指導しました。興味深いのは、私がコーチを務めた2人の息子も現在、デカードにあるNNAのエンジニアリング部門で働いています。実は私の母も、NNAのスマーナ工場でフレームとドアの溶接工として働いていたので、彼らは日産社員として3代目です。日産は私の家族によくしてくれたし、素晴らしいキャリアを与えてくれて感謝しています。
日産が野球部を復活させると聞いて、胸がいっぱいになりました。日産が野球への情熱を絶やすことなく持ち続けたことを嬉しく思います。野球部の復活は、自動車ビジネス以外の日産の才能をアピールする絶好の機会になるでしょう。当時学生の私たちに見せてくれたように、野球と対戦相手に対する強い敬意を示し続けてください。日産の代表として、国際的に戦う機会があれば、日本の代表として、そして何よりも自分自身のために力強く戦ってください。太平洋の向こうの米国から応援しています。
