インタビュー

日産野球部OB中村 将明さん日産野球部OB中村 将明さん

"ミクロ"と呼ばれた小さな左ピッチャーが背負ったNISSAN

幾多の名勝負で社会人野球を盛り上げてきた日産野球部。引退後も多くの選手が日産の従業員として活躍しています。追浜工場で働く桝本 心さんを紹介した前編に引き続き、今回は "ミクロ"と呼ばれて愛された中村 将明さんにインタビューしました。

中村さんは佐野日本大学高等学校に在籍し、左投げ左打ちのエースとして春2回、夏1回、甲子園に出場しました。青森大学でも1年時から東北代表として明治神宮野球大会に出場しました。日産には1999年に入社し、2001年から都市対抗野球大会に出場。"ミクロ"という呼び名のとおり、小さな左ピッチャーとして活躍し、2003年の日本選手権では大会優秀選手に選出されました。2005年に引退し、現在は、追浜工場総務課で管理業務全般を担っています。「日産野球部の応援歌をまた一緒に歌いたい」という中村さんに野球部時代の思い出、日産での業務、復活した野球部への想いなどを聞きました。

肌で感じた日産野球部の高い壁

中村 将明さん

入部当時の日産は、都市対抗野球で2度目の優勝を果たすなど、全国でも屈指の強豪チーム。私にとってまさに夢のようなチームでした。入部が決まった時はもちろん嬉しかったのですが、同時に「自分の実力で通用するのだろうか」と不安の方が大きかったことを覚えています。

1999年に入部してからは、練習についていくのに必死でした。アップの段階から選手全員が練習に集中しており、シートノックも試合さながらの緊張感がありました。私も全力で練習に取り組み、特に牽制の練習では「必ずアウトにする」という強い意識を持って臨んでいました。

私は制球力が持ち味の投手で、速球は120km/hそこそこ。90km/hほどのスローカーブを有効に使うことで、ストレートを速く見せることに苦心していました。しかし、入社当初は試合でなかなか抑えることができず、「この球速では通用しないのではないか」と自信を失いかけた時期もありました。

初めて都市対抗野球で投げたのは、入部3年目の2001年でした。1回戦の対JR東日本東北戦で、チームは5回までに9-2とリードしていました。しかし、6回以降に相手の追い上げを受け、私はマウンドに上がりました。もともと緊張しないタイプなのですが、9回にホームランを打たれ1点差に迫られた瞬間、頭が真っ白になり、ホームベースが見えないほど小さく感じたのを今でも鮮明に覚えています。

ちなみに、2001年は金属バットの使用が認められていた最後の年でした。そのため、当たりそこねでもホームランになり得る状況で、制球には特に神経を使いました。

日本選手権の優勝が最高の思い出

日本選手権の優勝が最高の思い出

印象に残っているのは、2003年のシーズンです。都市対抗予選で敗れ、本戦への出場を逃してしまったことで、練習が一層厳しさを増しました。反復練習を何度も繰り返す中、笛が鳴ると体が勝手に動き出すほど追い込まれていましたね。さらに、当時同じチームで頑張っていた仲間の投手が亡くなるという出来事もあり、チーム全員が一丸となって戦う決意を新たにしました。

背水の陣で挑んだ日本選手権では、準々決勝で同業のトヨタ自動車と対戦。私は試合終盤に登板しました。逆転負けを覚悟するような当たりを打たれたのですが、センターのファインプレーで救われた瞬間は今でも鮮明に覚えています。決勝の大阪ガス戦では、途中から最後までマウンドを任され、延長11回までもつれ込みました。そして、伊藤祐樹さん(現監督)のサヨナラヒットで優勝が決まった時は、本当に感無量でした。「美味しいところを持っていかれたな(笑)」と思いましたが、それもまた良い思い出です。 実は、この頃すでに結婚が決まっていて、冗談半分で「優勝して結婚式を迎えられたらいいね」と話していました。まさか本当にそうなるとは思わず、嬉しいサプライズでした。

野球部での生活では、いつも全力でやり切っている感覚がありましたが、2004年は思うように投げられない状況が続きました。そして2005年のシーズン、「有望な若手も入ってきた以上、このまま続けるとチームに迷惑をかけることになる」と考え、自ら監督に「引退します」と伝えました。

振り返ってみると、本当に幸せな野球生活だったと思います。NISSANのロゴを背負うことには常に大きな重みを感じていましたが、それを背負ってプレーできたことを心から誇りに思っています。

引退後は、野球部で培った集中力を仕事の際にも発揮できたと思っています。あとはコミュニケーション。部品メーカーから怒られることもありましたが、私は慣れているので、愛情だと思っていました(笑)。おかげで相手の懐に入ることができ、良い関係を築くことができましたね。

「世界の恋人」をまた一緒に口ずさみたい!

野球部が休部した後に復活するという話はあまり聞いたことがなく、日産野球部が復活するというニュースを聞いたときは、本当に嬉しかったです。当時の日産野球部では、厳しい練習が一つの伝統となっていました。ただ、今の若い選手たちがそのような練習にどのように向き合うのか、不安に思うこともあります。しかし、伊藤監督や四之宮コーチの指導方針なら、時代に合った新しい練習方法を取り入れ、日産らしい強いチームをつくり上げてくれるはずです。また、彼らが選んだ選手たちも、野球に対する情熱を持ち、日産らしいスピリットを受け継ぐ若者たちだと信じています。

もちろん、神奈川県は社会人野球の中でも特に競争の激しい地域ですから、1年目から結果を出すのは簡単ではないでしょう。しかし、私たちOBも全力でサポートしますので、まずは都市対抗野球への出場を果たしてほしいと願っています。

「世界の恋人」をまた一緒に口ずさみたい!

野球部時代を振り返ると、特に相模原部品センターの皆さんが応援に来てくれたことが印象に残っています。交代が近づき、ベンチの前でキャッチボールを始めると、スタンドから温かい声援が飛んできました。その声援は、今でも忘れられません。そして、試合中に日産のCMソング「世界の恋人」が流れると、スタンドとグラウンドが一体となり、私自身の気持ちも大きく高ぶったのを覚えています。

私たちの時代には、練習グラウンドは横浜市旭区の市沢にありましたが、今回は追浜が新たなホームタウンになります。休部後、私たちOBで野球教室を開催した際に、保護者の方々から「日産野球部が復活しますね。楽しみにしています」と声をかけてもらいました。地域の皆さんの期待の大きさを肌で感じています。地域の皆さんの応援は大きな力となり、間違いなく新しいチームのレベルを上げてくれるでしょう。

ぜひ、スタジアムに足を運んでください。そして、若いチームの成長を、一緒に応援していきましょう。あのスタジアムの一体感を共に味わえる日が来ることを楽しみにしています。

中村 将明さん(左)と桝本 心さん(右)
中村 将明さん