2011年12月16日

運命を切り開いたクルマ: 富士号&桜号

1958年、日産は世界で最も過酷なラリーと呼ばれた「モービルガス トライアル」に出場しました。日産車の耐久性を試すのが目的でしたが、結果として日産の歴史の重要な分岐点となりました。

戦後のレース復帰の場となったこのラリーに参加するにあたり、当時、マーケティングマネージャーを務めていた片山豊は、モータースポーツがブランドに与える影響を経営陣に説きました。

片山は、「日産をもっとよくしなければならないと思ったので、つい謀反心を起こして、できあがった車を持って、ラリーに参加しました。勝ちはしないだろう、負けるだろう、負けたら負けたでいいので、完走して帰ってくればいいじゃないか、兎より亀でいこうと始めから決めていたんです。そうしたら、クラス優勝しちゃったんですね。やっぱり思いついたら何でもやらなきゃいけないと思います」と当時を振り返ります。

レースを戦ったのは、富士号、桜号と呼ばれた2台のダットサン210型でした。 レースの一部始終は片山によって記録されました。メインドライバーは、難波靖治(なんば やすはる)と大家義胤(おおや よしたね)の2名が務めました。

難波はレースに参加することになった経緯について、「入社以来、実験課で車を走らせていましたが、同じ条件で同じ人間でいろんなテストをするのが実験なんです。ところが同じ条件で同じテストというのは難しいんです。ダットサンのテストをやるのに、何月何日にやった、フォルクスワーゲンのテストは日にちが1日違っちゃうと、気温は違う、風向は違う。ラリーというのは同じ条件で同じところを走るわけなので、条件は変わらない、変わるのは運転手の腕だけだ。運転手の腕も各社いろいろな人がベストの人を連れてくるのだから、それも同じとすれば、競争するのが一番いいのかな、という答えを言ったら、それなら行けばいいじゃないかということで、片山さんの企画の稟議書に乗っかったんですよ」と述べました。

レースはオーストラリア大陸を時計回りに19日間、16,000キロにわたって行われました。当時は世界最長の耐久レースで、多くのクルマが途中でリタイアを余儀なくされました。大家はレース直前に参加を命じられます。

大家は、「命とあれば致し方ないと、死地に赴くかもしれないが、行けといわれたら行かざるを得ない。捕虜になっていった人、進駐していた人たちと結婚して、アメリカからオーストラリアに帰っていた人もいたわけですね。そういう人たちが日の丸の旗を見ると嬉しくて、途中でチェックポイントかなにかで差し入れしてくれることがありましてね。梅干だとか海苔だとか、ケーキをくれた人もいましたね。がんばって ね、という声をいくつか聞きました。嬉しかったですね。とにかく部長に何としてもたどり着けといわれたゴールには入れたわけですからね。これでもう運転しなくてもいいんだ、助かったって言って、帰ってきました」と笑顔で答えました。

当初、完走が目標だった富士号はクラス優勝を獲得し、桜号も4位入賞を果たしました。このオーストラリアでの勝利とそのあと行われた1959年のニューヨーク国際自動車ショーでの車両展示は、世界中の熱狂的な自動車ファンの注目の的となりました。勝者として日本に戻ってきたメンバーは、その後、日本各地で凱旋パレードを行い、沿道から熱烈な喝采を浴びました。これが日産車の対米輸出を後押しする形となり、その後、半世紀以上にわたる会社の成長の土台となったのです。