毎日がスパイ大作戦

ここは、中東の広大な砂漠地帯。砂漠をクルマで走る現地の人々に混じった1人の日本人エンジニアが楽しそうに談笑してる。遊んでいるように見えるが、彼は今、着々とミッションをこなしている。笑顔の裏に隠された、そのミッションとは、いったい?

「中東に行った時には、砂漠で過ごしました。現地の暮らしに飛び込んで初めて、そこに暮らす人々の本音を知ることができますから」と話してくれたのは、市場要件調査グループのエンジニア・瀬戸昌一。
1999年からこれまでに、約80の国々を訪れた日産の市場要件調査グループは「世界中を旅する」エンジニア集団だ。彼らのミッションは世界各国で、クルマが使われる様子をリサーチしてくること。行く先々で、リアルな生活を観察・体験し人々の生の声に耳を傾ける。日本にいては絶対に分かりえない、クルマへの期待や要求を現地の人々の暮らしからつかみ取ってくるのが、彼ら市場要件調査グループの任務というわけだ。

「砂漠」

砂漠の中を、現地の人々と一緒にクルマで走るのも現地調査の1つ。砂漠に囲まれた中東エリアに暮らす人々のクルマの使い方に密着。

ずっと閉じたまま――。謎のサイドミラー

道路の整備が行き渡っていないロシアでは泥ハネがひどく、ドライバーはフロントワイパーを頻繁に使う。そのため、お店では多くのウォッシャー液が5リットルの大容量で販売されている。ロシアで販売するクルマに求められる要件は、この量を一度に使い切れる容量のウォッシャータンクを備えることである。これは、エンジニアが現地でリサーチしてきた市場要因の一例だ。
ほかにも、インドでは、サイドミラーを倒したまま走行するドライバーが多いと気付かされる。どうやら、インドでは、ミラーを倒していなければ、隣のクルマに当たってしまうという交通事情があるようだ。インドの人々は後ろを走るクルマのことをほとんど気にしないため、そもそもサイドミラーをあまり必要としていないという性質も見えてくる。
インドネシアではファミリーカーに6人乗るのがスタンダード。夫婦と2人の子供の4人家族に加え、そこにベビーシッターや運転手が乗るインドネシアでは、ファミリーカーには3列シートがマストなのである。
クルマの使い方にも地域性や国民性が存分に発揮されている。地域性や国民性を見きわめクルマの装備や特徴に反映しなければ、なんともツボを心得ていない、低品質なクルマと判断されることになる。

「ロシアのウォッシャー液」

ウォッシャー液が5リットル容器で売られるのがロシアの特徴。クルマのウォッシャータンクに求められるよう容量もまた5リットルだ。

「言ってること」と「やっていること」は違う

しかし、こうした調査で気をつけたいのは、現地の人々に「どんなクルマが欲しいですか?」「どんな性能が必要ですか?」と聞いても有効な回答は得られないということ。その国に暮らす人々が「暮らしの特徴は?」「クルマの特徴は?」と聞かれても、答えにくいのは当然のこと。市場要件調査のコツは、人々の行動や仕草から本音をつかみ、まるでスパイのように情報を導き出すことだ。「実際に調査をしてみると、言っていることとやっていることが違うと気付かされることは多いです。だから、現地での観察は欠かせません」(矢内秀克)。
調査メンバーは、ターゲットとなる国や地域の歴史や文化的背景を勉強してから現地に赴く。事前に「こんな文化がある」「この影響を強く受けている」という仮説を用意しておくのは必須である。下調べが不十分だと、現地で呆然とするのみ。左ハンドルか、右ハンドルかといったクルマ事情はもちろん、その背景にある宗教観や政治観も、頭に入れておくべきことだ。長年旅を続けるメンバーの知識レベルは、本物のスパイ顔負け。得意地域に関しては、アナリスト級の知識を持つメンバーもいる。

「チュニジア スイカ畑の農夫」

スイカ畑の農夫のクルマの使い方を調査する矢内。チュニジアでは、ピックアップトラックの荷台に収穫したスイカを載せて走るのだ。

いろんな国の人が本当に欲しがるクルマを求めて

こうした現地調査をエンジニアが直接行うのが、日産ならではの取り組みだ。社内には調査を担当する専門の部署が存在するが、エンジニアがリサーチャーとなり、世界を俯瞰して観察することが、国ごとのクルマの魅力アップに役立つと考える。
「ただ『こういう要件ありました。こういうクルマが欲しいらしい』だけでは、クルマ作りにはつながりません」(桑原雅子)。
「後席が広い方がいい」という要望に対して、寸法が大切なのか、それともひざがぶつからなければよいのか。訪れた現地で瞬時に判断しながら、技術的なハードルの解決策を提示することで、実現可能な提案として日本に持ち帰ることができる。いくら優れた調査結果を手にしても、最終的にクルマ作りに役立たなければ意味がない。
彼らの旅を締めくくるのは、部署内で開催する調査報告会。そこでは、現地で購入した世界各国の民族衣装に袖を通したエンジニアが、プレゼンテーションする光景が見られる。この民族衣装こそが、見知らぬ国の日常に身を置いてきた証。部内に保管した国際色豊かな衣装の数々は、市場要件調査チームが誇る勲章だ。
彼らは今日も、まるでスパイのように世界の街角に潜伏している。あなたの隣にいつのまにか見慣れない人物がいたら、それは、まさに調査中の、日産のエンジニアかもしれない。