5計44台の「ダットサン」を、アジア、中南米などに向けて輸出を開始。その後、1944年までに約18,000台を輸出した。1933.12月 日産自動車 創立1934.6月 アジア・中南米向けなどに 「ダットサン」の輸出開始1934.6月 現在と同じ 「日産自動車㈱」に改称1935.4月 横浜工場 完成 1935.4月 初の量産車、 ダットサン14型 1943.8月 吉原工場 完成 1945.11月 戦後第1号車 オフライン 1952.12月 英国オースチン社と 技術提携 1950年代前半、欧米自動車メーカーから最先端の自動車技術を修得するべく、英国・オースチンモーター社と技術提携を開始。1955.1月 初の全パネルプレス成型、 「ダットサンセダン110型」資本金1,000万円で自動車製造㈱を横浜市に設立。取締役社長に鮎川義介が就任した。鮎川の持ち株会社、日本産業の100%出資になったことを機に、自動車製造㈱から日産自動車㈱に改称した。横浜市新子安の約2万坪の湾岸埋立地に、自動車部品製造から最終組立、量産までを一貫でできる工場が完成した。日本初の量産車「ダットサン14型」。工業デザイナー・エンジニアとして著名な富谷龍一氏がスタイリングを手掛けた。戦時下の要請を受け、静岡県吉原(現 富士市)に航空機専門の吉原工場を設立。戦後はダットサンなどの生産を行った。戦後第1号車として「ニッサントラック」をオフライン。翌年以降、「ダットサントラック」「ダットサン」などの生産を再開。欧米の最先端技術をフィードバックした、戦後初のフルモデルチェンジ車「ダットサンセダン110型」を発売。る。当時、新進気鋭のエンジニアであった橋本増治郎設立の「快進社自働車工場」が1台のオープンの四輪乗用車を完成した。この車は「ダット自動車(脱■号)」と命名されて発売された。会社はその後改称や合併を経て、鮎川義介が設立した「戸畑鋳物」の傘下となり、当社の代表ブランド「ダットサン」が生まれる。そして1933年、同じく鮎川が社長を務める「日本産業」と合併して「自動車製造株式会社」が誕生した。創業期・戦後復興期 経 営 輸出・生産 経 営 輸出・生産 技 術 輸出・生産 経 営 経 営 技 術 【日産「創業」のルーツ】当社のルーツは1914年まで■
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