Nissan Motor Company

Nissan Heritage Collection

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創業者の鮎川義介は、個人名を会社名にはしませんでした。
創立当時の日産自動車の母体となった企業グループ「日本産業」の名に込められていたのは、個人の利益を追求するのではなく、日本全体の産業を活性化させたいという決意だったのです。

日産は、現在の横浜工場にあたる、日本初の大量生産自動車工場を始動させました。年間生産台数は10,000台に達し、当時、どの競合車よりも手頃な価格でクルマを提供することが可能になったのです。このエピソードは、日産のコーポレートビジョン「人々の生活を豊かに」が創業時から一貫していることを裏付けるものといえます。
さらに、米国人エンジニア、ウィリアム・R・ゴーハムを中心に、自動車の生産におけるアメリカと日本の両方の強みを大事にしていました。これは、日産が現在も大切にする「ダイバーシティ(多様性)」の文化を裏付けているのです。

日産の革新性は、テクノロジーだけでなくマーケティングコミュニケーションにも見ることができます。
日産は何度か、当時の日本で人気のエンターテインメントであったミュージカルレビューのスポンサーとして、舞台装置の一部としてしばしば日産の商品であるダットサンやニッサン車をステージに登場させていました。
また、ダットサンは、早くも1930年代に有名女優をイメージキャラクターに起用。
日産が当初から先進的であったことを物語るストーリーの一つです。

1936年、日産はダットサン車や日産車を消費者へ広く紹介するため、4人の女性を起用しました。
それは、プロのデモンストレーターとしてメーカーの訓練を受けた女性を通じて、消費者に直接コミュニケーションするという、まったく新しい試みであり、1963年から続く、現在の「ミスフェアレディ」の前身というべき存在でした。

1936年、日産は「全日本自動車競走大会」と呼ばれる日本初のモータースポーツイベントシリーズに参加していました。
このレースのため、日産は、当時最先端のテクノロジー(DOHCエンジン+スーパーチャージャー)を搭載するスペシャルマシン「ダットサンNL-75」を製作。
期待通りの性能を発揮し、優勝を勝ち取ります。
このエピソードも、日産が当初から先進的な企業であったことを物語るストーリーの一つになっています。

1937年、ハリウッド映画でさえ、まだフルカラー作品が珍しかった当時、日産は商品広告にフルカラームービーフィルムを使用しました。それは他に類のない、非常に斬新な試みだったのです。

日産のゼロエミッション自動車の起源は、第二次世界大戦から2年後、元立川飛行機のエンジニア達が製造した電気自動車「たま」にさかのぼります。このクルマは当時、政府主催の公式試験で日本最高性能と品質を保証された優れた商品でした。
「たま」ブランドの電気自動車は、1950年まで商業的にも成功を収め、当時、累計で1,100台を販売するに至りました。その後、この会社はプリンス自動車工業を経て、1966年に日産に合併。
終戦間もない時代、慣れないはずのクルマづくりに果敢に挑戦していった彼らのチャレンジングスピリットは、現在の日産にしっかりと受け継がれています。

1952年、日産は戦争中の技術における空白期間を埋めるため、イギリスのオースチン社(Austin Motor)と技術提携を結びました。1960年代には、そのオースチンのノウハウを活かし、自社技術と次世代に向けた新商品(ダットサンブルーバード310、日産セドリック30等)を次々に開発。スピードを重視した柔軟で合理的なアプローチは、日産が創業当初から持っている「ダイバーシティ(多様性)」の文化を象徴しています。

1954年に設立された日産デザインチームによる最初期の作品の一つ「ダットサンセダン 112型」。 その実用的なデザインは高い評価を獲得し、トヨペット・クラウンRS型と競い合った結果、次の理由で、1956年式ダットサンセダンが毎日デザイン賞を受賞しました。
「日本の貧困を肯定した非常に無駄のない健康的なデザイン。それがダットサンがクラウンに勝る理由である。」
これは、ダットサンというブランドの性質を物語るストーリーの一つです。

1958年、当時世界で最も苛酷な耐久レースであった「オーストラリアラリー」でダットサン1000セダン(210型)がクラス優勝を果たしました。(1リットル以下の「Aクラス」)
日産にとって、初めての海外のモータースポーツイベントへの参加だったこのレースは、「ダットサン車の品質と耐久性を海外市場に証明する」という当初の目的を達成したのです。
日産の新しいカテゴリーへの挑戦と結果によって、ダットサンは世界で有名になり、日産がこれらのモデルをアメリカ、アジア、オセアニアに輸出する際の後押しとなったのです。

*オーストラリアラリー:正式名称は「1958年モービルガス・トライアル・ラウンド・オーストラリア・ラリー。 」オーストラリア大陸を時計回りに一周する16,000キロの耐久レースという当時の世界最長モータースポーツイベント。 事実、あまりの苛酷さ故に1958年以降は二度と開催されませんでした。

日本の自動車需要が法人から個人へと移行し始めていた1959年。日産は、既存のダットサンセダンよりも洗練された新世代ファミリーカーである、新型ダットサンセダンを「ブルーバード」という新名称で発売しました。この商品は、市場の大好評を博し、当時日本での最大のヒット車になります。
わずか4年間のうちに世界で210,000台を販売。日産が市場をリードしていきました。

1963年、日産は東京の銀座に、お客さまと直接コミュニケーションする接点として「日産ギャラリー」をオープン。当時、自動車メーカーがこのような施設を持つことは非常に珍しいことでした。また、ショールームを担当する「ミスフェアレディ」と呼ばれる専門の訓練を受けた女性を配置。現在も、48世代にわたりホスピタリティを提供し続けています。

日本のモータースポーツの歴史で、最も有名なストーリーの一つであり、今もなお語り継がれる「伝説」があります。
1964年、プリンス自動車工業は、鈴鹿サーキットで行われた第二回日本GP(GT-IIカテゴリー)に、2リッターエンジンを搭載したスペシャルモデル「スカイラインGT」で参加。
ドイツ(当時の西ドイツ)で作られた純粋レーシングカーであるポルシェ904GTSと互角に競い合い、わずか1周ながら、ポルシェを抜いたのです。
日本車がまだ世界の技術レベルに遠く及ばないと思われていた当時、グランドスタンドの観衆は、スカイラインがポルシェの前に出たことに大興奮、総立ちに。このエピソードは、高性能スポーツセダンという現在のスカイラインのイメージの、まさに起源と言えるものでした。

1966年春、日産は既存の「ブルーバード」よりも安価な車種への潜在需要に応えるべく、1Lエンジンを搭載した全く新しいコンパクトセダン、ダットサンサニー1000(B10型)を発売。サニーは、日本市場でファミリーカーの爆発的需要を瞬く間に引き起こしました。
直後に発売されたトヨタ・カローラと並んで、その後、長く日本の大衆車市場をけん引していきました。
ちなみに、車名は公募で、応募総数はなんと当時の日本の人口の約9%に相当する約850万通に及んだという記録が残っています。この数字は、それまでになくお求めやすい大衆乗用車がいかに待ち望まれていたかを物語っています。

日産史上最も革新的な商品のひとつと称されるダットサンブルーバード(510型)。このクルマによって「日産の技術的な卓越性」が証明されたと言っても過言ではありません。このクルマのスタイル、性能、品質が、中型セダンに新しい基準をもたらしました(OHCエンジン、独立式リヤサスペンション、三角窓のない先鋭的なスタイリングなど)。販売台数も4年の間に世界で130万台を越え、日本車初のグローバルヒット車となったのです。

1969年、日産は最初の「GT-R」を発売。このクルマは、純粋プロトタイプレーシングカー「日産(プリンス)R380」から数多くの技術をフィードバックし、4バルブDOHCエンジンや4輪独立式サスペンションなどの多くのレーシングテクノロジーを搭載した、前代未聞の超高性能ツーリングカーでした。GT-Rは、日本における国内ツーリングカーレースに君臨し、3年間で52勝を達成。
そのDNAは、今日のテクノロジーフラッグシップ、NISSAN GT-Rに受け継がれています。

日産は、世界最量販のスポーツカーシリーズとして知られる「ダットサン Z/日産フェアレディZ(通称「Zカー」)」を通して、スポーツカーの世界に大きなイノベーションをもたらしました。手頃な価格帯でありながら、魅力的なスタイリングとスポーツカーとして第一級の性能を備え、かつ、日常の足としても使える高い実用性も歓迎されました。こんなスポーツカーは、Z以前にはなかったのです。それまで高嶺の花だったスポーツカーを、真の意味で「みんなのもの」にした一台と言えるでしょう。

1972年、日産は高級セダン「セドリック/グロリア(230型)」に「4ドアハードトップ」シリーズを発売しました。現代でさえ難易度の高い、センターピラーレス/サイドウィンドーサッシュレスの設計で、クーペのような優雅なスタイリングと、後席の乗員からの独特な開放感を同時に実現していました。
この「4ドアハードトップ」は、競合他社もすぐに追随を始め、新たな流行を生み出し、4ドアでありながらクーペ風のスタイリングをもつ「4ドアハードトップ」車は、その後も、その後の約30年間、ラグジュアリー車セグメントを独占することになります。

1969年、日産は伝説的なマーケティングキャンペーン「愛のスカイライン」の展開を開始。これは、日本において、人々の記憶に最も長く残った広告キャンペーンの一つで、三代目スカイラインシリーズ(C10型)のセールスポイントを、シンプルな言葉で表現したものでした。
1972年には、四代目の新型スカイラインのキャンペーンが、「ケンとメリー」という新シリーズへと進化。社会現象ともいうべきさらなるセンセーションを巻き起こしていきます。

1979年、日産は日本で市販車初となるターボチャージドエンジンを搭載した高級セダン「セドリック/グロリア 430型」を発売しました。1970年代、世界の自動車業界が、厳しい排ガス規制や燃費効率の向上といった要求に苦悩する中、日産は、ターボチャージャーが出力向上技術というだけでなく、燃費向上技術の一つでもあるというもうひとつの側面を訴求することで、政府の認証を得ることができました。日産は、日本におけるターボエンジン車の業界トレンドを生み出したのです。

1982年に発売された日産プレーリーは、ダブルスライドドアの7シートMPVとして、センターピラーレスボディーにフルフラットシートを搭載していました。
当時、日本市場では当時商業的に成功とは言えませんでしたが、日本のマーケットだけでなく、世界的に見ても、現在まで続くミニバン車の草分けであることは間違いありません。

1984年、高級セダンである日産ローレル(C32型)に世界で初めて電動格納式ドアミラーが搭載されました。決して先端技術ではないものの、それは誰にとっても便利な、よく考えられた機能だったため、その後、電動格納式ドアミラーの採用車は日産車に限らず、全世界に広がって現在に至ります。これは、日産の「使いやすさのイノベーション」が、世界標準を決定したという一例でもあるのです。

1980年代半ば、日産のR&D部門は、いわゆる「901活動 」と呼ばれる「1990年までに世界No.1の動性能を実現」という新しい目標に向けた活動を開始。
日産のR&Dにおける新しいチャレンジは、1990年頃には、「プリメーラ P10型」「スカイライン R32型」など、数多くの優れた商品に結実し、「技術の日産」という印象を世界に与えました。

「パイクカー」は、それまでになく個性的で斬新なデザインのクルマを指し、決して大量生産を目的としたものではありませんでした。 Be-1は、日産のパイクカーの中でも先駆的な存在で、カーデザインの世界に初めてレトロスペクティブ(懐古的)なモチーフが用いられたことでも知られています。
「ノスタルジックモダン」をメインテーマとして、内装と外装の懐かしさと新しさをほどよくブレンドした優れたデザインと評価され、当時、予定された生産台数は瞬く間に完売となりました。

1980年代後半の日本においてラグジュアリーカーへの新たな需要に応えた、シーマ(FY31型)は、そのユニークなスタイリングと高性能が、多くの人々を魅了し、爆発的なヒットとなりました。これも、日産が新しい市場を生み出した例の一つです。

日産がいち早く新技術を標準採用した例のひとつが、無断変速機(CVT)の採用です。 1992年、グローバル戦略車であった新型「マーチ/マイクラ(K11型)」へ、まだコストの高かったCVTを、大胆にいち早く標準採用しました。
CVTは、燃費効率とダイレクトな加速応答の両方を実現。その後も日産は、CVTの研究開発を積み重ね、より多くのクルマに適合するよう、パワーインプット制限、潤滑油等の大きな課題も克服したのでした。

1994年、日産は当時日本市場において限られたモデルにしか搭載されていなかったSRSエアバッグを、運転席に標準装備すると発表しました。1995年には、日産はフロントシートにデュアルSRSエアバッグ標準装備化を発表。
新しい機能を身近にするという日産の姿勢が、この時、改めて市場に明確に示されたと言えるでしょう。

日産は、1992年からリチウムバッテリーEVの研究開発活動を開始。 1997年式プレーリージョイEVは、市場に売り出された世界初のリチウムイオンバッテリーEV でした。
これは、日産の継続的な挑戦がつなげた偉業のひとつです。
20年間蓄積されたこの取り組みなくして、今日の日産リーフは存在しなかったといっても過言ではありません。

1997年に登場したエルグランド。日本市場には「フルサイズミニバン」がまだなく、一躍ヒット商品となりました。これもまた、先駆的な商品によって日産が新たに市場を生み出した例の一つです。

2002年の新型マーチ/マイクラ(K12)を皮切りに、日産は「インテリジェントキー」の搭載を開始。それ以降、インテリジェントキーは日産のあらゆる商品に搭載されていきました。暮らしに便利なものを積極的に広げていく日産の姿勢は、ここにも表れています。

2002年に登場した新世代クロスオーバーSUV ムラーノ(Z50型)と、それに続くキャシュカイ/デュアリス(J10型)、ジューク(F15型)といった日産のクロスオーバーSUV。
そのラインアップは、時代の先駆けとなり、再び新しいトレンドや市場を生み出していきました。

2003年の東風汽車有限公司設立以来、日本車メーカーの中では、中国市場で日系メーカー中ナンバーワンの地位を確立。
未来に向け、さらには市場全体でナンバーワンを目指していきます。

交通事故による死亡・重傷者数ゼロを目指す、VISION ZERO。
そのための取り組みとして、クルマが人を守る「セーフティ・シールド」の開発が本格化していきました。その成果が、ムービングオブジェクトディテクションやレーンデパーチャーウォーニングなど今日の日産の安全技術に盛り込まれています。

2010年12月の発売以来、世界で70,000台以上が世界の街を走っています。(2013年7月23日現在)
リーフの登場は、EVが当たり前に走る時代を切り開いたのです。

    創業者の鮎川義介は、個人名を会社名にはしませんでした。
    創立当時の日産自動車の母体となった企業グループ「日本産業」の名に込められていたのは、個人の利益を追求するのではなく、日本全体の産業を活性化させたいという決意だったのです。
    日産は、現在の横浜工場にあたる、日本初の大量生産自動車工場を始動させました。年間生産台数は10,000台に達し、当時、どの競合車よりも手頃な価格でクルマを提供することが可能になったのです。このエピソードは、日産のコーポレートビジョン「人々の生活を豊かに」が創業時から一貫していることを裏付けるものといえます。
    さらに、米国人エンジニア、ウィリアム・R・ゴーハムを中心に、自動車の生産におけるアメリカと日本の両方の強みを大事にしていました。これは、日産が現在も大切にする「ダイバーシティ(多様性)」の文化を裏付けているのです。
    日産の革新性は、テクノロジーだけでなくマーケティングコミュニケーションにも見ることができます。
    日産は何度か、当時の日本で人気のエンターテインメントであったミュージカルレビューのスポンサーとして、舞台装置の一部としてしばしば日産の商品であるダットサンやニッサン車をステージに登場させていました。
    また、ダットサンは、早くも1930年代に有名女優をイメージキャラクターに起用。
    日産が当初から先進的であったことを物語るストーリーの一つです。
    1936年、日産はダットサン車や日産車を消費者へ広く紹介するため、4人の女性を起用しました。
    それは、プロのデモンストレーターとしてメーカーの訓練を受けた女性を通じて、消費者に直接コミュニケーションするという、まったく新しい試みであり、1963年から続く、現在の「ミスフェアレディ」の前身というべき存在でした。
    1936年、日産は「全日本自動車競走大会」と呼ばれる日本初のモータースポーツイベントシリーズに参加していました。
    このレースのため、日産は、当時最先端のテクノロジー(DOHCエンジン+スーパーチャージャー)を搭載するスペシャルマシン「ダットサンNL-75」を製作。
    期待通りの性能を発揮し、優勝を勝ち取ります。
    このエピソードも、日産が当初から先進的な企業であったことを物語るストーリーの一つになっています。
    1937年、ハリウッド映画でさえ、まだフルカラー作品が珍しかった当時、日産は商品広告にフルカラームービーフィルムを使用しました。それは他に類のない、非常に斬新な試みだったのです。
    日産のゼロエミッション自動車の起源は、第二次世界大戦から2年後、元立川飛行機のエンジニア達が製造した電気自動車「たま」にさかのぼります。このクルマは当時、政府主催の公式試験で日本最高性能と品質を保証された優れた商品でした。
    「たま」ブランドの電気自動車は、1950年まで商業的にも成功を収め、当時、累計で1,100台を販売するに至りました。その後、この会社はプリンス自動車工業を経て、1966年に日産に合併。
    終戦間もない時代、慣れないはずのクルマづくりに果敢に挑戦していった彼らのチャレンジングスピリットは、現在の日産にしっかりと受け継がれています。
    1952年、日産は戦争中の技術における空白期間を埋めるため、イギリスのオースチン社(Austin Motor)と技術提携を結びました。1960年代には、そのオースチンのノウハウを活かし、自社技術と次世代に向けた新商品(ダットサンブルーバード310、日産セドリック30等)を次々に開発。スピードを重視した柔軟で合理的なアプローチは、日産が創業当初から持っている「ダイバーシティ(多様性)」の文化を象徴しています。
    1954年に設立された日産デザインチームによる最初期の作品の一つ「ダットサンセダン 112型」。 その実用的なデザインは高い評価を獲得し、トヨペット・クラウンRS型と競い合った結果、次の理由で、1956年式ダットサンセダンが毎日デザイン賞を受賞しました。
    「日本の貧困を肯定した非常に無駄のない健康的なデザイン。それがダットサンがクラウンに勝る理由である。」
    これは、ダットサンというブランドの性質を物語るストーリーの一つです。
    1958年、当時世界で最も苛酷な耐久レースであった「オーストラリアラリー」でダットサン1000セダン(210型)がクラス優勝を果たしました。(1リットル以下の「Aクラス」)
    日産にとって、初めての海外のモータースポーツイベントへの参加だったこのレースは、「ダットサン車の品質と耐久性を海外市場に証明する」という当初の目的を達成したのです。
    日産の新しいカテゴリーへの挑戦と結果によって、ダットサンは世界で有名になり、日産がこれらのモデルをアメリカ、アジア、オセアニアに輸出する際の後押しとなったのです。

    *オーストラリアラリー:正式名称は「1958年モービルガス・トライアル・ラウンド・オーストラリア・ラリー。 」オーストラリア大陸を時計回りに一周する16,000キロの耐久レースという当時の世界最長モータースポーツイベント。 事実、あまりの苛酷さ故に1958年以降は二度と開催されませんでした。
    日本の自動車需要が法人から個人へと移行し始めていた1959年。日産は、既存のダットサンセダンよりも洗練された新世代ファミリーカーである、新型ダットサンセダンを「ブルーバード」という新名称で発売しました。この商品は、市場の大好評を博し、当時日本での最大のヒット車になります。
    わずか4年間のうちに世界で210,000台を販売。日産が市場をリードしていきました。
    1963年、日産は東京の銀座に、お客さまと直接コミュニケーションする接点として「日産ギャラリー」をオープン。当時、自動車メーカーがこのような施設を持つことは非常に珍しいことでした。また、ショールームを担当する「ミスフェアレディ」と呼ばれる専門の訓練を受けた女性を配置。現在も、48世代にわたりホスピタリティを提供し続けています。
    日本のモータースポーツの歴史で、最も有名なストーリーの一つであり、今もなお語り継がれる「伝説」があります。
    1964年、プリンス自動車工業は、鈴鹿サーキットで行われた第二回日本GP(GT-IIカテゴリー)に、2リッターエンジンを搭載したスペシャルモデル「スカイラインGT」で参加。
    ドイツ(当時の西ドイツ)で作られた純粋レーシングカーであるポルシェ904GTSと互角に競い合い、わずか1周ながら、ポルシェを抜いたのです。
    日本車がまだ世界の技術レベルに遠く及ばないと思われていた当時、グランドスタンドの観衆は、スカイラインがポルシェの前に出たことに大興奮、総立ちに。このエピソードは、高性能スポーツセダンという現在のスカイラインのイメージの、まさに起源と言えるものでした。
    1966年春、日産は既存の「ブルーバード」よりも安価な車種への潜在需要に応えるべく、1Lエンジンを搭載した全く新しいコンパクトセダン、ダットサンサニー1000(B10型)を発売。サニーは、日本市場でファミリーカーの爆発的需要を瞬く間に引き起こしました。
    直後に発売されたトヨタ・カローラと並んで、その後、長く日本の大衆車市場をけん引していきました。
    ちなみに、車名は公募で、応募総数はなんと当時の日本の人口の約9%に相当する約850万通に及んだという記録が残っています。この数字は、それまでになくお求めやすい大衆乗用車がいかに待ち望まれていたかを物語っています。
    日産史上最も革新的な商品のひとつと称されるダットサンブルーバード(510型)。このクルマによって「日産の技術的な卓越性」が証明されたと言っても過言ではありません。このクルマのスタイル、性能、品質が、中型セダンに新しい基準をもたらしました(OHCエンジン、独立式リヤサスペンション、三角窓のない先鋭的なスタイリングなど)。販売台数も4年の間に世界で130万台を越え、日本車初のグローバルヒット車となったのです。
    1969年、日産は最初の「GT-R」を発売。このクルマは、純粋プロトタイプレーシングカー「日産(プリンス)R380」から数多くの技術をフィードバックし、4バルブDOHCエンジンや4輪独立式サスペンションなどの多くのレーシングテクノロジーを搭載した、前代未聞の超高性能ツーリングカーでした。GT-Rは、日本における国内ツーリングカーレースに君臨し、3年間で52勝を達成。
    そのDNAは、今日のテクノロジーフラッグシップ、NISSAN GT-Rに受け継がれています。
    日産は、世界最量販のスポーツカーシリーズとして知られる「ダットサン Z/日産フェアレディZ(通称「Zカー」)」を通して、スポーツカーの世界に大きなイノベーションをもたらしました。手頃な価格帯でありながら、魅力的なスタイリングとスポーツカーとして第一級の性能を備え、かつ、日常の足としても使える高い実用性も歓迎されました。こんなスポーツカーは、Z以前にはなかったのです。それまで高嶺の花だったスポーツカーを、真の意味で「みんなのもの」にした一台と言えるでしょう。
    1972年、日産は高級セダン「セドリック/グロリア(230型)」に「4ドアハードトップ」シリーズを発売しました。現代でさえ難易度の高い、センターピラーレス/サイドウィンドーサッシュレスの設計で、クーペのような優雅なスタイリングと、後席の乗員からの独特な開放感を同時に実現していました。
    この「4ドアハードトップ」は、競合他社もすぐに追随を始め、新たな流行を生み出し、4ドアでありながらクーペ風のスタイリングをもつ「4ドアハードトップ」車は、その後も、その後の約30年間、ラグジュアリー車セグメントを独占することになります。
    1969年、日産は伝説的なマーケティングキャンペーン「愛のスカイライン」の展開を開始。これは、日本において、人々の記憶に最も長く残った広告キャンペーンの一つで、三代目スカイラインシリーズ(C10型)のセールスポイントを、シンプルな言葉で表現したものでした。
    1972年には、四代目の新型スカイラインのキャンペーンが、「ケンとメリー」という新シリーズへと進化。社会現象ともいうべきさらなるセンセーションを巻き起こしていきます。
    1979年、日産は日本で市販車初となるターボチャージドエンジンを搭載した高級セダン「セドリック/グロリア 430型」を発売しました。1970年代、世界の自動車業界が、厳しい排ガス規制や燃費効率の向上といった要求に苦悩する中、日産は、ターボチャージャーが出力向上技術というだけでなく、燃費向上技術の一つでもあるというもうひとつの側面を訴求することで、政府の認証を得ることができました。日産は、日本におけるターボエンジン車の業界トレンドを生み出したのです。
    1982年に発売された日産プレーリーは、ダブルスライドドアの7シートMPVとして、センターピラーレスボディーにフルフラットシートを搭載していました。
    当時、日本市場では当時商業的に成功とは言えませんでしたが、日本のマーケットだけでなく、世界的に見ても、現在まで続くミニバン車の草分けであることは間違いありません。
    1984年、高級セダンである日産ローレル(C32型)に世界で初めて電動格納式ドアミラーが搭載されました。決して先端技術ではないものの、それは誰にとっても便利な、よく考えられた機能だったため、その後、電動格納式ドアミラーの採用車は日産車に限らず、全世界に広がって現在に至ります。これは、日産の「使いやすさのイノベーション」が、世界標準を決定したという一例でもあるのです。
    1980年代半ば、日産のR&D部門は、いわゆる「901活動 」と呼ばれる「1990年までに世界No.1の動性能を実現」という新しい目標に向けた活動を開始。
    日産のR&Dにおける新しいチャレンジは、1990年頃には、「プリメーラ P10型」「スカイライン R32型」など、数多くの優れた商品に結実し、「技術の日産」という印象を世界に与えました。
    「パイクカー」は、それまでになく個性的で斬新なデザインのクルマを指し、決して大量生産を目的としたものではありませんでした。 Be-1は、日産のパイクカーの中でも先駆的な存在で、カーデザインの世界に初めてレトロスペクティブ(懐古的)なモチーフが用いられたことでも知られています。
    「ノスタルジックモダン」をメインテーマとして、内装と外装の懐かしさと新しさをほどよくブレンドした優れたデザインと評価され、当時、予定された生産台数は瞬く間に完売となりました。
    1980年代後半の日本においてラグジュアリーカーへの新たな需要に応えた、シーマ(FY31型)は、そのユニークなスタイリングと高性能が、多くの人々を魅了し、爆発的なヒットとなりました。これも、日産が新しい市場を生み出した例の一つです。
    日産がいち早く新技術を標準採用した例のひとつが、無断変速機(CVT)の採用です。 1992年、グローバル戦略車であった新型「マーチ/マイクラ(K11型)」へ、まだコストの高かったCVTを、大胆にいち早く標準採用しました。
    CVTは、燃費効率とダイレクトな加速応答の両方を実現。その後も日産は、CVTの研究開発を積み重ね、より多くのクルマに適合するよう、パワーインプット制限、潤滑油等の大きな課題も克服したのでした。
    1994年、日産は当時日本市場において限られたモデルにしか搭載されていなかったSRSエアバッグを、運転席に標準装備すると発表しました。1995年には、日産はフロントシートにデュアルSRSエアバッグ標準装備化を発表。
    新しい機能を身近にするという日産の姿勢が、この時、改めて市場に明確に示されたと言えるでしょう。
    日産は、1992年からリチウムバッテリーEVの研究開発活動を開始。 1997年式プレーリージョイEVは、市場に売り出された世界初のリチウムイオンバッテリーEV でした。
    これは、日産の継続的な挑戦がつなげた偉業のひとつです。
    20年間蓄積されたこの取り組みなくして、今日の日産リーフは存在しなかったといっても過言ではありません。
    1997年に登場したエルグランド。日本市場には「フルサイズミニバン」がまだなく、一躍ヒット商品となりました。これもまた、先駆的な商品によって日産が新たに市場を生み出した例の一つです。
    2002年の新型マーチ/マイクラ(K12)を皮切りに、日産は「インテリジェントキー」の搭載を開始。それ以降、インテリジェントキーは日産のあらゆる商品に搭載されていきました。暮らしに便利なものを積極的に広げていく日産の姿勢は、ここにも表れています。
    2002年に登場した新世代クロスオーバーSUV ムラーノ(Z50型)と、それに続くキャシュカイ/デュアリス(J10型)、ジューク(F15型)といった日産のクロスオーバーSUV。
    そのラインアップは、時代の先駆けとなり、再び新しいトレンドや市場を生み出していきました。
    2003年の東風汽車有限公司設立以来、日本車メーカーの中では、中国市場で日系メーカー中ナンバーワンの地位を確立。
    未来に向け、さらには市場全体でナンバーワンを目指していきます。
    交通事故による死亡・重傷者数ゼロを目指す、VISION ZERO。
    そのための取り組みとして、クルマが人を守る「セーフティ・シールド」の開発が本格化していきました。その成果が、ムービングオブジェクトディテクションやレーンデパーチャーウォーニングなど今日の日産の安全技術に盛り込まれています。
    2010年12月の発売以来、世界で70,000台以上が世界の街を走っています。(2013年7月23日現在)
    リーフの登場は、EVが当たり前に走る時代を切り開いたのです。
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