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全10回に亘りお届してきた本企画「NISSAN LEGENDS」、最終回である今回、経営者から日産の原点に迫ることにした。そして、今回登場するのは、日産とルノーのアライアンスを実現させた経営者、塙義一である。そして、インタビュアーは、当企画の制作を担当してきた、自動車専門誌「CAR GRAPHIC」の発行元である、株式会社カーグラフィック代表取締役社長加藤哲也である。塙義一という人物は、同じ経営者としてどのように見えたのだろうか。

加藤哲也(以下「加藤」と略す):ルノーとのアライアンスを成功に導いた経営者とは、いったいどんな方なのか、ずっと興味があったのでお会いできるのを楽しみにしていました。
塙義一(以下「塙」と略す):こちらこそ、今回はよろしくお願いします。

加藤:1934年のお生まれと伺いましたが、当時、もうクルマは頻繁に見かけるほど走っていたのでしょうか。
塙:幼少期は戦前だったのですが、ダットサンという小さいクルマが走っていたという記憶があります。東京の杉並区に住んでいましたが、家の近くに甲州街道があって、そこでたまに見かけました。でもしばらくして戦争が始まったら世田谷区に引っ越して、そうしたら途端にクルマなんて見かけなくなりました(笑)。

小学校時代、近所の仲間と。(右端が塙氏)

加藤:そのダットサンをきっかけに、クルマに対する興味や好奇心は湧きましたか。
塙:湧かなかったですね(笑)。本当にたまに見かける程度で、日常生活にクルマはありませんでしたから。小学2年生の時に戦争が始まって、6年生で終戦。つまり、小学生時代はずっと戦争だったのです。だから当時の夢は戦車に乗ること、戦闘機に乗ることでした。中学生になっても、日本はまだ混乱の時代。食糧難でもありましたから、クルマに興味を持てるような状況でもありませんでした。

中学時代は戦後の混乱期。東京の廃墟化はその象徴だった。(昭和20年頃の東京)

加藤:大学では経済学部に進まれたそうですが、そろそろアメリカの文化が入ってきた頃でしょうか?
塙:いえいえ。みんな、ようやく食べられるようになった頃で、アメリカの文化に接するのはもう少し後のこと。私なんか下駄で学校に通っていましたから。
加藤:で、就職先には日産をお選びになった。ようやくクルマに興味を持たれたからですか。
塙:ゼミの教授が日産の人事担当と知り合いで紹介してくれたのです。当時は、まだ自動車が日本の基幹産業になる以前の時代でした。入社した直後くらいに当時の日銀総裁が「日本に自動車産業はいらない」みたいなことを言いましてね。せっかく入社したのに仕事がなくなるかもしれないと不安になりましたよ(笑)。

大学時代、山によく登った。(手前が塙氏)

加藤:いまのような自動車大国になるとは思いませんでしたか。
塙:日本の自動車産業がこんなに栄えるなんて、当時は誰も思わなかったんじゃないでしょうか。
加藤:最初に配属されたのはどちらの部署でしたか。
塙:本社の人事課でした。新子安に本社があった時代です。世田谷から通っていて、毎日遅刻です。始発に乗っても始業時間に間に合わなかった(笑)。

日産に入社したてのころ。(手前が塙氏)

加藤:当時の日産社内の雰囲気は、どのような感じでしたか。
塙:思っていたよりも働きやすい環境でした。学生時代は会社のことなんかよく分からないので、上下関係が厳しくて徹底的に会社の思想などをたたき込まれる厳格なところと、勝手に想像していたのです。でも実際には、自由な雰囲気で先輩のみなさんもとても親切でした。
加藤:片山豊さんのような、型破りな方がいらしたくらいですもんね。
塙:当時はまだ片山さんは存じ上げませんでしたが、あのように豪快な方が活躍していらっしゃったような会社ですから(笑)。

追浜工場人事課の仲間と。(手前から2列目、左端が塙氏)

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加藤:すでにクルマの免許はお持ちでしたか。
塙:はい。というのも、入社試験を受けたら人事の人が「免許のない者は採用しない」なんて言い出しまして。どうやら半分冗談だったらしいのですが、私は真に受けて、慌てて友達のクルマを借りて練習しました。つまり無免許運転ですね(笑)。それで、入社前に1ヵ月くらいの研修があって、設計部門に配属されたのです。そこの先輩が構内で運転を教えてくれました。4回目でやっと合格ですよ(笑)。当時の試験はけっこう厳しかったのです。

加藤:初めて自分でクルマを運転したときのことは覚えていらっしゃいますか。
塙:いやあ、楽しかったですね。アクセルを踏むだけであんなに速く走れて、自由にどこへでも行けるなんて。
加藤:じゃあ、すぐにご自身でも購入された?
塙:いいえ。当時は従業員でクルマを持っている人なんてほとんどいませんでした。マイカーを持ったのは会社に入ってから10年後くらいだったでしょうか。初めての新車は確かサニーでしたが、その前に中古の310ブルーバードに乗っていました。

インタビュー時の塙氏(左)と加藤氏(右)。

加藤:そして日本では自動車産業が著しい成長を遂げることになります。
塙:ただただ忙しかったですよ。じっくり教育や訓練をうけて仕事が増えていく、それが本来の会社の姿なのですが、そんな悠長なことを言っていられる場合ではなかった。先輩に何かを教えてもらおうと思っても「そんな暇はないから自分で勉強しろ」と。そんな雰囲気でした。入社当時は「仕事がなくなるかもしれない」と思っていたわけですから、それを思えば大変でしたけれどやりがいはありました。それに、戦争で壊滅した経済を何とかして立て直さねばという気概が国中に満ちていましたし。

加藤:ずっと本社の人事課にいらっしゃったのですか。
塙:座間や追浜など、工場の準備室で人事を担当していました。
加藤:人材確保は困難でしたか。
塙:事務系の人材集めはそれほど苦労しませんでしたが、工場は慢性的に人手不足で大変でした。結局、本社の人事課に約4年、工場で約10年、本社に戻って調査課に約6年いたことになります。

加藤:そして渡米された。
塙:その当時、アメリカはアメリカ人をトップに置くという会社の方針だったので、私たちは本社とのパイプ役を務めました。いろいろ勉強になりましたね。日本は自動車産業では世界一だなんて思っていた時代で、マネジメントも日本式のほうが優れているから、それを教えてやろうなんて意気揚々と乗り込んでいったのですが、アメリカ人は実力があって優秀な方ばかりでした。生産技術は日本のほうが優れていたかもしれませんが、マネジメントはあちらのほうが一枚上手でした。

加藤:アメリカでの生活は楽しまれましたか。
塙:もちろん大変なことも多かったですが、楽しかったですよ。自分は比較的、環境の変化に強いのかもしれませんね。当時は海外赴任の任期なんて決まっていなかったので、いつ日本へ帰れるかも分からない。でも、仕事ですから。

加藤:そんなふうに簡単に割り切れるものですか。
塙:仕事があることだけでもありがたいと思っていた時代だったので。嫌いだとか面倒臭いとか、そんなことは口に出さないのが当たり前。楽しい仕事なんてあるわけないし、仕事に楽しみを求めるのがそもそも間違っている。そんなふうに、自分に言い聞かせてきました。世の中のお役に立てればそれで十分ではないか、と私は思います。

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ヨーロッパにおける販売台数首位を長年に亘り堅持してきた、フランスを代表する自動車メーカーのルノー。そんな巨大企業を相手にほとんどひとりで丁々発止、アライアンス締結まで交渉を続けた人物である。だから、お会いする前の塙さんの印象は、アグレッシブで自信家、話をする相手を威圧するかのような語り口の人かと想像していた。ところが実際の塙さんは、木訥としていてどちらかと言えば控え目で謙虚、でも自分の考えや言うべきことはきちんと伝える紳士であった。

加藤哲也(以下「加藤」と略す):アメリカに5年いらして、1985年に帰国されています。企画室長になられて、ほどなくして企画室の取締役に。
塙義一(以下「塙」と略す):はい。当時はプラザ合意にどう対応するかについて検討していました。円高で輸出が極端に減るわけですから、どちらかといえば会社の事業を縮小する方向性を探っていた。そんな時にバブルが来てしまったのです。このままずっといくとまでは思わなかったけれど、せっかく良い風向きになったのだから、会社としてはそれに乗っていこうということになった。「でもやはり慎重に考えるべき」とその時思ったとしても、それを言い出せるような雰囲気でもありませんでした。

海外販売を統括していた副社長時代。サウジアラビアにて。

加藤:そしてバブルがはじける。
塙:その頃はアメリカの生産と販売を担当していて、海外全体も見るようになった。だから国内のことはよく分からなかったのですが、会議でデータを見て、これは大変なことになったなと。円高だから輸出で補うのも難しい。

加藤:その後96年に社長に就任され、ルノーとの交渉に臨まれたわけですね。
塙:そもそもその当時、日産はいまで言うところのグローバル化をもっと進めるべきだと考えていたのです。日産の商売の4分の3は海外でやっている。生産の半分は現地だし、日本の生産の半分は輸出していた。それなのに、社内では外国との距離があって、ドメスティックな会社という雰囲気が強かった。これはあまりいいことではないと思っていたのです。どうすれば、外国のカルチャーと日産のカルチャーがコンタクトできるのか。そんなことをずっと考えていました。

社長就任直後。

加藤:「400万台クラブ」なんて言葉が出てきた時期でもありましたね。
塙:そうです。誰が言い出したのかは定かではありませんが、自動車メーカーは今後、その位の規模がないと単独で生き残っていくのは難しい、そんなことがまことしやかに言われていました。
加藤:提携先として、最初にコンタクトを取ったのはどこのメーカーだったのですか。
塙:最初はルノーでした。ダイムラーの話も挙がっていたけれど、あれは大型トラック部門のこと。だから日産ではなく、日産ディーゼルについての交渉だったのです。ところがマスコミにえらく騒がれちゃって。我々もダイムラーも大変驚きました。こんな騒ぎになるなんて思ってもいなかったから。後にはダイムラーも含めていくつかの会社と交渉することになるのですが。

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加藤:日産のほうからルノーに話を持ちかけたのですか。
塙:いいえ。お手紙を頂戴したのです。シュバイツァーさんから。こういう話は仲人さんがいたり、トップ同士で話しているうちになんとなくそういう方向へ行ったりと、状況はさまざまなのです。

加藤:シュバイツァーさんはどんな方でしたか。
塙:素晴らしい人でした。知的だし、何より信念を貫く方です。約束を必ず守るし、一度決めたことは誰に何を言われても覆さない、そういう強さを感じる人物でした。
加藤:つまり、日産が手を結ぶ相手として信用できると。
塙:最初からそう思いました。当初、我々はルノーという会社をあまりよく知りませんでした。でも何度か話をしていくうちに、彼と考え方が似ているなと思うようになりました。

アライアンス調印式

加藤:では交渉は比較的スムーズだったのですか。
塙:はい。最初の頃に、隠しごとはしないでフランクに話し合いましょうと約束したのです。ウソをついても、提携した後に結局はバレてしまう。そうなったら、関係は長く続きませんから。
加藤:お会いする時はふたりきりですか。
塙:ほとんどふたりでしたね。パリでも会ったし東京でも会ったし、よその国でも会いました。1998年と1999年の2年間、2ヵ月に一度くらいの頻度でしたか。

アライアンスの調印式後、関係者と。(左から5番目が塙氏)

加藤:そしてアライアンスの提携に辿り着き、ゴーンさんがやってきた。会社は変わりましたか。
塙:それはもう180度変わりましたね。ゴーンさんはマネジメントのスペシャリストでした。先ほどお話ししたように、日産はグローバル化するべきだし、精神的な改革も必要だと考えていました。それをゴーンさんが見事にやってくれたのです。

ゴーン氏が日産に来たばかりのころ。

加藤:ゴーンさんには、何か申し出たのですか。
塙:ここは自由にやっていいけれど、ここはいじらないでくれ、そういう仕事の託し方ではダメなのです。ひとりの人間が持つコンセプトを遂行するには、それを邪魔するようなことを言うとうまくいかない。だから一切口を挟まない、100%サポートしますと伝えました。社長業としての対外的な仕事は時間をとられるから、それは全部自分が引き受ける。ゴーンさんは社内の仕事に集中して下さいと。

加藤:外からだと、ゴーンさんはクセのある方のようにお見受けするのですが。
塙:クセはないですよ。何でもはっきり言うから分かりやすい。すべてが明快です。そして人の気持ちを理解して、心を掴むのが実にうまい。ゴーンさんが来日した直後に、私とシュバイツァーさんは席を外し、副社長たちだけでゴーンさんと話をしてもらう機会を作りました。会議の後、みんなが口を揃えて「あの人となら一緒にやっていける」と言ったのです。これで問題ないと確信しました。

アライアンス締結後のECメンバー。(1999年)

加藤:激動の時代の中で、企業として困難な局面に遭遇し、それも切り抜けて、日産が生まれ変わった。
塙:はい、そうです。でも状況がよくなってくると、パートナーなど必要ないと思うようになってしまうのが人間の常。パートナーとは空気のような存在ですから、たとえ存在感が薄くなったと感じても、それがなくなってしまったらやはり生きてはいけないのです。だからパートナーを常に大事にして、そのありがたみを忘れないようにしてほしいと思います。

インタビューに応じる塙氏

【取材を終えて】
塙さんが入社された当時とは、日本の自動車産業が高度経済成長の波にまさに乗らんとする直前。年間の販売台数が前年の倍以上という年が何年も続くという、明るい未来しか見えないような時代だった。それでも塙さんは「こんな状況は長く続かない」と思っていたという。冷静にして客観的な視点は、世がバブル景気に踊る1980年代になっても変わることなく、そして彼の予想通り、日産自動車のみならず日本経済全体が窮地に立たされた。つまり、塙さんは日産自動車在籍中に日本の自動車業界の絶頂期からどん底までを味わったことになる。しかしその貴重な実体験と経験があったからこそ、ルノーとのアライアンスを成功に導くことができたのではないだろうか。

ルノーと日産自動車は、それぞれ得意とする分野が微妙に異なっており、これがうまく融合すれば「1+1」は「10」にも「20」にもなるだろう。そのためには、ルノーと日産自動車が独自のキャラクターをきちんと維持することが重要だ。「1+1=1」になってしまうことだけは避けるべきである。私たちのような自動車好事家はもちろん、誰より塙さんご自身がそんなことを望んではいないはずだから。(加藤哲也)

ライタープロフィール

加藤 哲也 / Tetsuya Kato
1959年東京生まれ。1985年に(株)二玄社に入社し、自動車専門誌『カーグラフィック』に配属、2000年に同誌編集長に就任する。2007年に姉妹誌『NAVI』の編集長となる。2010年4月に(株)カーグラフィックが設立され代表取締役社長に就任、現在に至る。

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LEGEND 10 | 塙 義一