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(掲載されている情報は、このコンテンツ制作時点の2013年現在です。 最新の情報と異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。)

今回、サー・イアン・ギブソンへインタビューを試みるにあたり、彼をよく知る多くの方からは「素晴らしい選択。この伝記に取り上げるにふさわしい人物」と異口同音に言われた。個人的には面識がなく、スケジュールの都合でインタビューはイギリスと日本を結ぶ電話回線を使うこととなり、若干の不安を抱いていたので、彼らの言葉はとても頼もしいものだった。

大学を卒業後、フォードへ入社したギブソンは労使関係や生産関係の職に就き、約15年をそこで過ごした。
「自動車会社か飛行機会社で悩みましたが、飛行機は自分で所有することができないので、より身近な自動車を選びました(笑)」
その後、1984年に日産自動車へ転職。自動車会社を渡り歩くこと自体は珍しい話ではないが、アメリカの自動車会社に勤めたイギリス人が日本の自動車会社へ移る心境とはどのようなものだったのだろう。

1984年、英国日産自動車製造会社(NMUK)入社時の頃。

「1970年代後半は、ドイツ、スペイン、そしてイギリスを中心に仕事をしていました。その時、マツダとの仕事も多かったのです。その当時はまだ、日本式のマネージメントを欧米人にそのまま適用することは難しいとされていて、日産もまさにそれに取り組もうとしていたタイミングでした。日本の自動車メーカーと仕事を共にした経験が活かせるかもしれない。それが日産へ転職することを決めた理由でした。しかし、マツダと一緒に仕事をしたといっても、所詮はサッカーや野球の試合をスタンドから観戦していたようなものだったということを、実際に日本企業へ入り込んで痛感したのです」

1984年11月、NMUK(サンダーランド工場)が着工した当時の様子。

入社直後の数ヵ月は大きな問題もなく過ぎていったという。ところが、さまざまな局面に遭遇していくうちに、カルチャーショックを受けることになる。
「たくさんのカルチャーショックがありましたが、意志決定がとても不透明だったこともそのひとつです。欧米では決まり事があるときは、それにかかわるスタッフが一堂に会し、それぞれの意見を述べ、そして最終決断を下します。日本企業の場合は何か決めようとすると、いつの間にか深い霧に包まれてしまい、何が起きているのかよく分からず、霧が晴れるとすべてが決まっている、という感じでした」

建設中のサンダーランド工場。(1985年)

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「もうひとつは企業文化の違いです。日本人は目上の人や知識と経験のある人に対してとても敬意を払う。そして若い人は、上司から直接教えてもらうのではなく、彼らの仕事ぶりを見ながら自ら学んでいきます。一方、欧米では知識の移行ということにとても重点を置きます。上司は若い人に対して、自分の持っている知識や経験を継承する責任を負っています。だから上司が直接若い人をトレーニングする。欧米の若い人たちは教えてもらうことが当然だと思っているので、どうして上司がきちんと説明してくれないんだろうと不満に感じていたようです。

リーダーシップについての考え方の違いですね。欧米の若い人は日本人のリーダーに対して、欧米人のリーダーのように対等の関係でいたいと願うし、日本人のリーダーは欧米の若い人に対して、なかなか言うことを聞いてくれないと悩んでいました。1980年代後半は、そういった文化の違いを日本人、欧米人両方に説明しました。ただ、異なる文化を学ぶというのは、個人的には自分の思考回路をグレードアップするためにとても必要なことだと思いました。大変でしたけれど、楽しんで取り組むことができました」

NMUK(サンダーランド工場)の外観。

日本人のスタッフは一生懸命に欧米式を学ぼうとし、欧米のスタッフは日本式を真剣に理解しようとした。お互いがお互いを学ぶことで、共に問題を解決していこうという雰囲気が次第に出来上がっていったという。
「特に生産現場における『カイゼン』という考え方と、現場を見て理解して現場目線で考えるやり方は素晴らしかった。我々欧米人も多くのことを日本から学びました」
この欧米式と日本式のいいところを持ち寄ったコラボレーションが、サンダーランド工場のスタイルとなり、後にドイツやスペインなど欧州の日産全体へ広まっていった。

ギブソンにとっては、まさに働き盛りだった時期のほとんどすべてを費やしたサンダーランド工場。イギリス人従業員の会社に対するロイヤリティーは非常に高く、工場の制服を着て海外出張に赴く者もいたと聞く。ギブソンは当時、一緒に働いていたスタッフと今でも交流があるそうだ。彼にとってそこは、どんな場所なのだろう。

「良い思い出も大変だった思い出もたくさんあります。家族であり子供であり、大学のような場所でもあります。
在籍中にはたくさんの若い人を雇いました。彼らもいまでは40代から50代になり、会社で重要なポジションについています。中には役員になった人もいます。若い頃から知っている顔ばかりですから、父親のような気分でもあり、だからこそ、家族や子供のように感じるのです。ますます活躍してほしいと願っています。

本当にいろんなことを教わりました。会社勤めというよりも、学生として毎日学校へ通っているみたいでもありましたね。辛いことも楽しいこともありました。でも、とてもチャレンジングで、いつもポジティブに取り組むことができました」

日本企業を学び日産自動車という会社に勤めることを誇りに思うようになった彼は、後に歴史的プロジェクトを取り仕切るチームに加わることになるのだった。

1986年9月8日、サンダーランド工場オープニングセレモニーに参加するサッチャー首相(当時)。

オープニングセレモニーに先立ち、チャールズ皇太子とダイアナ妃は、日本の座間工場を訪問し、同じダルマに最初の目入れを行っていた。

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1980年代後半から90年代前半にかけて、日産は欧州にて著しく成長した。最初の欧州生産車であるプリメーラの成功、英国日産自動車会社(NMGB)の設立、マイクラ(日本名マーチ)の欧州市場投入とヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーの受賞など、グッドニュースが次から次へと飛び込んできた。イアン・ギブソンは、その頃を振り返る。

クルマと一緒に記念撮影をするギブソン氏。

「当時、日産は欧州で16ヵ国と取引をしていましたが、マーケットごとに日産のポジションやブランドイメージは微妙に異なっていました。欧州の一部の地域では、日本からの輸入台数が制限されていたので、シェアを大きく伸ばすことが事実上不可能でした。しかし、サンダーランド工場の本格操業により、イギリスから供給できるようになって、あらたに共通したブランドイメージを構築するチャンスが巡ってきたのです。

プリメーラ

マイクラ

同時にディーラーシップの再構築にも取り組みました。欧州のディーラーは家族経営が多く、これはなかなか大変でしたが、1993年後半から本格的に始め、各国ごとに新しいディーラーシップを作り上げていきました」

しかしその後、日産はかつてない危機に陥ることになる。
「90年代後半になると、欧州で実際の販売台数とマーケティング戦略にズレが生じ始めたのです。そして利益が十分に出なくなってきた。これを早急にカイゼンする必要に迫られたのです。まずは生産側のコストを削減し、浮いたお金をマーケティングに使うという戦略をとりました。通常、コスト削減自体はそれほど難しいことではありません。むろん販売台数が増加傾向にあればの話ですが。一方、当時の日産はコストを削減しても販売台数はフラットだった。でもやるしかなかったのです。プラットフォーム戦略を構築しはじめたり、生産ラインを改良することで、コスト削減に挑みました。一発逆転のマジックのようなものはなく、小さいことをコツコツと積み重ねて、この難局を乗り切ろうとしました」

そして1999年。日産自動車はルノーとアライアンスを締結する。その際、日本人以外で初めての日産自動車常務に就任し、欧州日産の代表としてアライアンス活動の最前線に携わったのがギブソンだった。

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「アライアンスの話が出た時、私はスペインの日産モトールイベリカの社長を務めており、スペインに住んでいました。アライアンスの相手として、ルノーの他にメルセデス・ベンツの名も挙がっていて、今だからお話しますが、当初はルノーとは難しいだろうと私自身は思っていたのです。私がイギリス人で彼らがフランス人という、根本的な問題もありましたし(笑)。もうひとつ、フランスの自動車業界はその当時、日本の自動車業界に対してあまり好意的ではありませんでした。

日産自動車での常務就任時に「新任役員」として紹介された。

ところが、実際にルノー側の人間と話をしてみると驚くことばかりだったのです。彼らはとてもオープンで、日産から多くのことを学びたいという姿勢を前面に出していました。もちろん、予想通り日産とのアライアンスに反対する人もいましたが。 話を進める中で、個人的にはとても前向きにこの締結を捉えていました。良好な関係が築けるという感触がありましたし、販売戦略的にも日産にとっては有益だと思ったからです。当時欧州でルノーは12%ものシェアを誇っていましたが、日産はわずか5%に過ぎませんでした。このふたつがアライアンスを組むわけですから、この判断はやはり正しかったと今でも思っています。」

アライアンス締結から13年。2012年、日産は、イギリス/スペイン/フランス/ポルトガル/ベルギーで、アジア系メーカーの中でナンバー1の市場占有率を記録した。
「商品の合理的な価値こそが強みだと思います。品質、信頼性、耐久性、経済性、そして商品力が常に一貫して備わっていて、これがお客さまに支持されている。最近では、それにエモーショナルという新たな価値も加わってきました。デザインやエンジンのフィーリングなどがヨーロピアンテイストになってきたように見受けられます。これが成功の理由ではないでしょうか」

今日の成功は今後の成功の礎にもなるとギブソンは語る。そして日産の仕事に携わるすべての人は、もっとこのことに注視するべきだと言う。
「1990年にプリメーラが登場してから約四半期という短い期間で、日産は欧州におけるブランドを確立した。この事実は、みなさんがもっと誇りに思っていいことなのです。欧州メーカーでは100年なんて歴史は当たり前なのに、日産はそのたった4分の1の時間で達成することができたのですから。これは本当に素晴らしいことですし、今後の25年も日産のプレゼンスをさらに強固なものにするべく、頑張っていただきたいと願っています」

ギブソンは言葉を選びながらとても丁寧に取材に応じてくれた。姿は見えなくとも、その人望や人柄は察するに余りあるほど魅力的だった。こういうリーダーと共に仕事をすることができたスタッフは幸運だったと思う。お会いしたことも話したこともなかった彼だが、電話インタビューを終える頃には、まるで昔からよく知る人物のように感じた。

ライタープロフィール

渡辺 慎太郎 / Shintaro Watanabe
1966年東京生まれ。アメリカの大学を卒業後、自動車専門誌「ル・ボラン」の編集者を経て1998年にカーグラフィック編集部へ。2003年に退職し、編集プロダクション「(有)MPI」の代表を務めるとともに、自動車ジャーナリストとしても活動を始める。現在はカーグラフィックの編集長も務める。

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LEGEND 07 | イアン・ギブソン