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(掲載されている情報は、このコンテンツ制作時点の2013年現在です。 最新の情報と異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。)

日産という企業が80年にわたって発展の歴史を紡いできた陰には、いくつもの変革期があった。たとえば、時代の要求に先駆けて女性の能力を活用すべく、いち早く女性デザイナーを起用したこと。
あるいは、CI(Corporate Identity)によるグローバルブランド戦略。 訪問セールスから店舗販売へ自動車の販売方法の改革、など。

こうした、決して小さいとは言えない変革へのチャレンジを、時にリーダーシップをとりながら支えてきた立役者の一人が、島田京子である。そう聞いて、驚く人も少なくはないはずだ。むしろ、驚きの反応の方が自然かもしれない。

生後3ヶ月の頃、満州新京にて両親と。(1945年5月)

何しろ自動車会社である。日産は比較的自由で柔軟な社風が特徴とはいえ、世界中の他メーカーと同様に、男性優位の会社であることも偽らざる事実なのだから。島田のキャリアはそのまま、日産のチャレンジの歴史であり、かつ、自動車産業における女性活躍の歴史とも言えるのだ。

「実は……入社当初は、2~3年勤められればいいかな、と。いわゆる、腰かけのつもりだったんです」
パイオニアたるその後の活躍を知っていれば、意外にしか聞こえない言葉。しかしその、常に自然体な姿勢こそが、輝かしいキャリアを育み、グローバル企業へと日産の発展を導く原動力であったことを、島田自身の言葉を通して知ることになる。

終戦の半年前に満州に生を受けた島田は、幼少期から東京で育ち、日本女子大学付属高校から日本女子大学へ進学。建築を専攻していながら、日産への入社を決めたのは、「いずれ建築家になるのだから、その前に別の世界を見ておくのも悪くない」と思ったからだ。デザイナーとしての起用だった。

1967年。男女雇用機会均等法施行を遡ること19年。女性が社会で活躍する文化が、まだ日本に根付いていない時代のことである。
「自動車が一家に1台の時代になり、女性の感性でデザインすることが必要だと、日産はいち早く考えたのですね。当時、日本の自動車会社に、女性のデザイナーは1人もいませんでした」

日本女子大学の卒業式にて、住居学科の友人と。(1967年3月:右から2番目が島田)

初の女性デザイナーとして、島田のキャリアがスタートした。

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日本の戦後復活、高度経済成長の象徴だった自動車が、国民にとって憧れの存在だった時代だ。一緒に仕事をする約50人のデザイナーはもちろん、エンジニアも、他部署の社員も、ほとんどが自動車に明るい男性だった。そういう環境にいながら島田は、自分の手で操る先鋭的な機械としての自動車に、さして興味はなかったという。

その代わり、否、だからこそ、他の社員にはない強みもあった。「生活空間」。自動車のことを、島田はそう表現する。ドライバーだけでなく、助手席や後部座席の乗員、外界との対比と調和、そうしたすべての要素があって初めて成り立つ、移動を伴う暮しのための空間の1つ、そして、ユーザーが自身のライフスタイルやアイデンティティを活かせる空間と捉えているのだ。

乗用車のカラーやインテリアデザインの担当となり、デザインの着想を得るため、デパートの売り場をめぐり、女性ばかりでなく男性のファッションや色の流行を感じ取ったり、瀟洒な建築や家具を眺めに出かけたりもした。
当時、黒が常識だった高級公用車のボディーカラーにシックなブルーやブラウン、ホワイトの採用を提案し、誰もが当たり前のように受け入れていた概念を、さらりと壊した。
当時を振り返りながら島田は言う。

「よく、前例がないから、とおっしゃる方がいるけれど、前例がないことは言い訳にならないと思うんです。前例がないなら作ればいい。作ってしまえば後は自然に道ができていくものです」

日産の後輩女性デザイナーと共に、富士スピードウエイに視察。(1970年頃:右から3人目が島田)

そういう島田の発想には、キャリアという裏づけに加えて、クリエイティブな分野からの出発も影響しているかもしれない、と自身は言う。しかし、そればかりではなさそうだ。
「子どもの頃からずっとそうなのですが、私は競争に勝つことに執着がないのです。その代わりいつも思っているのは、与えられた役割を感じとりながら自分にしかできないことをしようということ」

仕事に打ち込む日々の中で、自然と湧き上がってきた「もっと広い視野からクルマの開発に関わってみたい」という気持ちから、その後、島田は設計開発本部へと転属する。専門知識などまるでない世界へ、ゼロからのリスタートともいえる180度の転換。まさにチャレンジだった。腰かけのつもりで入社してから、すでに7年の月日が経っていた。

デザイン部から設計開発本部へ異動し、まったく異なるフィールドで見聞を広めた。(本社ショールームにて)

設計開発本部の頃。当時の上司・同僚の方々と。(1974年頃:左から2人目が島田)

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入社から8年目の1974年、島田は設計開発本部に転属する。マーケティングに基づいた新商品の企画に取り組んだ。
仕事の一貫として、歴代の日産車ラインアップを眺める内に、気づいたことがあった。ロゴやエンブレムが、モデルによってバラバラだったのだ。それだけでなく、販売店の看板や、製品のリーフレットや説明書の色や書体もまちまちだった。島田は考えるようになった。「日産らしさって、何だろう?」「新しい時代のグローバルブランド戦略を検討する時期ではないだろうか」 

ニューヨークへの出張。その当時、女性としては初めての海外出張だった。

1980年、それを学び、確認するための海外出張の機会が与えられた。社長室CI(Corporate Identity)プロジェクトチーム5人の内の1人として声がかかったのは、ちょうどそんな折。1981年のことだ。CI活動の計画・マニュアル作成までを、2年間で達成させるのがプロジェクトの目標だった。まさに大改革の旗手としての抜擢だった。プロジェクト解散後、島田は広報部に異動し、引き続き世界展開・実施を担うことになる。

「他社にはない日産らしさとは、チャレンジ精神だろうと思うのです。チャレンジ精神があるからこそ、自由な発想が生まれ、新しい時代に求められるクルマづくりができる企業、それが日産なのではないかと。CI活動は、まさにそのチャレンジ精神を体現する、絶好のチャンスでもあったわけです」

後にゴーン社長の下でもこの経験が活かされることになり、2002年、再びグローバルブランド戦略としてのVI( Visual Identity)開発に取り組むことになる。
その後、広報部では企業のイメージ戦略に携わり、1984年には女性初の課長職に就任。やはり課長として1988年から席を置いた営業企画部では、全国ディーラー店舗のリニューアルの指揮をとった。それまでの訪問販売型から店舗販売型へ、いわば自動車の販売方法の変革をともなった大改革である。

「訪問販売が主流だったそれまでの自動車販売店は、ただ自動車が置いてあるだけといった風情で、とても気軽にお客さまが近づける雰囲気ではありませんでした。これからは、ファミリー層や、80年代初頭から目に見えて増えていた女性ドライバーにもお越しいただける店舗にしなくちゃいけないわ、と思いました。ちょっとお茶をしに立ち寄れるスペースや子どものコーナーを設けたり、トイレも清潔で心地よい雰囲気にしつらえてみたり。女性ならではの視点だとか、デザイナーとしての感覚に、助けられた仕事でした」

CIの世界展開のため、欧州や北米の海外拠点を視察して歩いた。

1991年からは、社会貢献活動を担うことになった。現在では、多くの企業が社会貢献活動の重要性を認識し、経営戦略の中にビルトインして、体系的・継続的に行うようになってきている。しかし当時、企業の社会的役割の重要な柱のひとつとして社会貢献活動に取り組む日本の企業は少なく、自動車業界では日産が先駆けであった。日本経済・経営環境が低迷する時代、そんなことをする必要があるのか?という声もある中、当時の久米社長の、これからの企業の社会的存在意義にとって欠かせない重要な経営課題であるという強い思いで専門部署が設置され、その導入の旗振り役として島田が抜擢された。

「変化の激しい国際社会、日本社会で、単一の価値で構成された社会は脆いということが、様々な分野で散見されています。多様な価値が認められる社会、そしてそのような異質で多様な価値が出会って、切磋琢磨されていくところにこそ、新しい社会を切り拓ける、逞しい力が生まれるのだと思います」

広報部でイメージ戦略を担当していた頃の1枚。

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社会には無数の課題があり、1つの企業が全ての課題に対応することはできない。その方針をきちんと経営戦略に組み込み継続していくために、活動分野やNPOの支援基準など活動方針を決めて取り組んだ。

独自の社会貢献プログラムのひとつに『日産NPOラーニング奨学金制度』があった。これは、学生がNPOでインターンを経験し、その労働の報酬は日産が奨学金として支給するというもの。「若者に知的労働の機会を提供したいと考え、1998年に創設しました。NPOには専門性と独自の行動原理があります。それらに触れる機会を若者に提供したかったのです」。ゴーン社長はこれを「若者への投資」と呼んで、毎年自ら、修了証を学生たちに手渡した。
『日産童話と絵本のグランプリ』も、既に29年継続してきており、子どもの本の新進作家の登竜門となっている。

公益社団法人「企業メセナ協議会」の「メセナアワード」を授賞。これは、企業や企業財団などが取り組む、メセナ(芸術・文化振興による社会創造)活動に対して評価されるもの。 (一番左が島田)

「第1回朝日企業市民賞」を受賞した際の新聞記事。

また、活動のひとつとして、社内に社会の多様な風を取り込むこと、社員の自発的なボランティア活動の支援にも力を注いだ。
さらに、『CSR(企業の社会的責任)』という概念がまだ日本では普及していない2003年には、ゴーン社長から、サステナビリティレポート発行のためのプロジェクトチーム発足の命を受け、その責任者として、広報部内にサステナビリティグループを設置し、現在の日産のCSR活動の基盤をつくった。

「実際にレポートを作成していく過程で、CSRはコーポレートガバナンスのひとつの手法となるのではないかと感じました。私はサステナビリティをより大きな概念として捉えています。それは、すべての企業行動をあらゆるステークホルダーの視点で評価し直していくことであり、社員の社会的視野を育てることにもつながる。また、レポートをまとめ上げていくということは、会社と社会との認識に共通点を見出し、持続的に発展していくための作業であると感じます。このような対話を続けることで、継続的に学び続ける組織が可能になるのだと思います」

「第1回サスティナビリティレポート」の発行を担当。

島田が取り組んだ、社会貢献活動やCSR活動におけるキーワードは「ダイバーシティー(多様性)」「学び続ける組織」。それは、今という時代を映すキーワードのひとつであり、新しいチャレンジをし続ける日産を映す言葉でもあり、なおかつ島田京子という個性を映す鏡にも思える。
「私自身は決して能力が高いわけではないので、専門知識を持った方々や周りの人たちから知恵をいただきながらでないと、前に進めないのです。入社してから退職するまで、学ぶことばかり。

そうした毎日を通してわかったのは、私は人と仕事をするのが好きなんだ、ということ。自分とは違う個性が集ると、知らないことを教えていただけるだけではなく、自分一人ではとうてい思いつかない発想が生まれたり、こんな考え方もあるんだ、あんな感じ方も素敵だ、などと、気づくことがたくさんありますから」

現在は、公益財団法人「横浜市芸術文化振興財団」で、芸術文化振興に尽力する。

「腰かけのつもり」で入社してから定年退職まで、実に38年。淡々と粛々と仕事に取り組んできた島田の足跡には、結果として「女性初」「女性唯一」という枕詞が付いて回った。
「もちろん、抵抗は感じましたよ。けれども、得をすることの方が多かったように思います。男性にはない感性や能力が女性にはあるかも知れない、ということで、新しいことにもチャレンジさせてもらえたのもそのひとつ。前例を自身で創り拓いていくことは、心が躍ります」

日産という企業内のみならず、日本の自動車産業の中にあってもパイオニアであり続けた島田京子。日産退職後も、女性の一貫教育を担う学校法人 日本女子大学の事務局長として、さらに、13のアート関連施設を運営する公益財団法人 横浜市芸術文化振興財団の代表理事・専務理事を務める今に至るまで、「人と働くのが好き」な組織人として歩いている。

取材に応じる島田氏

ライタープロフィール

岡 小百合 / Sayuri Oka
東京生まれ。エディター、ライター。青山学院大学文学部卒業後、高校教師を経て、1990年に自動車総合誌『NAVI』編集記者として株式会社二玄社入社。1995年、出産を機にフリーランスに。女性であり母であり主婦である視点を活かしつつ、主に自動車まわりの話題を中心に執筆する他、大学の公式WEBサイト全面リニューアルのプロデュースや、広告制作など、多岐に渡って活動を続けている。

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LEGEND 06 | 島田 京子