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語る人:伊藤修令
「R31」の開発途中で、桜井眞一郎からその後継者として選ばれた伊藤修令。1959年に入社し、当時の「第四設計課」、今でいうところの「シャシー設計」のサスペンショングループに配属となった。「大学で燃焼の勉強をしていたから、本当はエンジンをやりたかった」が結局馴染みの薄いシャシー設計をやることに。その部署の上司が、桜井眞一郎だったのである。

入社したのは1959年です。初めて桜井さんに会った時の印象ですか。すごく威張った人でしたね(笑)。周りの人も避けて通るようなただならぬオーラを放っていて、桜井さんの上司よりも年上で偉そうに見えました。実は僕、桜井さんのことなんてまったく知らなかったんです。

新入社員はすぐに仕事がなかったので、仕方なく机でタバコを吸っていた。するとそこに桜井さんがやってきて、「新人のくせに勤務時間中にタバコなんか吸うな!」とドヤされまして(笑)。それが桜井眞一郎という人とのファーストコンタクトでした。まずいところに来ちゃったな、と思いましたよ(笑)。

図面を広げながらクレイモデルのモデラーに指示を出す桜井。スカイラインに対する彼の思い入れが分かる写真。(1981年)

最初の仕事は、線や文字が書かれたお手本みたいなものがあって、これを真似して練習することでした。それを朝から晩まで、1週間やらされました。学生時代に一応製図の勉強はしてきたし、図面なんて間違いがなければいいんじゃないか、それくらいに思っていたから不満でしたね。その上、桜井さんはなかなかOKを出さない。これは後で彼から聞いたんですが、製図の勉強をしてきた人間に、ただ線だけを1週間書かせて、それで投げ出すような奴は使い物にならない。理不尽なことを言われても、こんちくしょうと奮起して向かってくるくらいじゃないと、設計者としての任は務まらないから、それを試していたそうです。「オレは大工の棟梁だ」みたいなこともよく言っていました。「新人の大工にいきなりカンナで木を削らせないだろ。まずはカンナの刃を研がせる。それと同じだ」と。

ステアリングを握る桜井眞一郎(1981年)

初めての仕事らしい仕事は、エンジンマウントの設計でした。ところが僕はエンジンマウントがどんなものかすら知らなかった。桜井さんはエンジンの重量とかちょっとしたデータを渡すだけで何も教えてくれない。その上、1週間でやれと言う。とりあえず本屋で振動設計に関する本をかき集めて勉強しながらやったけれど、結局1週間で完成しなかった。するとこっぴどく叱られました。「頼んだ人は『一週間で出来てくる』とお前のことをあてにしている。それが出来なかったことで、どれだけの影響が出るのか分かっているのか」と。もう1週間やるから必ず仕上げろと言われ、死に物狂いで期日に間に合わせた。その時ですね、ようやく認めてもらえたのは。こいつはしごいても逃げ出さないでなんとかする、そう思われたんでしょう。

初代スカイライン(ALSI-S1)。この時のサスペンション担当エンジニアのひとりが桜井だった。(1957-1963年)

桜井さんは手取り足取り教えない。必要な情報だけ与えて、あとは自分でどうにかしろと。出来上がると今度は質問攻め。それにきちんと答えられないと認めてもらえません。誰かがそう言っていましたとか、本に書いてありました、は禁句。たとえそうであっても、きちんと検証して裏を取って自分のものにする。そこまでやって彼の質問に答えないと、すぐに見透かされてしまうんです。生産技術のことまでとにかくなんでもよく知っていて、この人はすごく勉強しているんだと尊敬しました。でも、一旦信頼されるとその後はラクでした。僕が図面を書いて持って行くと、ろくに見もせずにサインしてくれるようになったので(笑)。

5代目スカイライン。通称「ジャパン」。日本の風土が生んだクルマという意味を込めて「スカイライン・ジャパン」のキャッチフレーズが使われた。1979年のマイナーチェンジでそれまでの丸型4灯ヘッドライトか角型2灯へあらためられた。(1977-1981年)

桜井さんは話術も巧みでした。いまでいうプレゼン能力です。スカイラインの哲学は走りがいいこと。ドライバーの感覚に忠実なクルマ、つまり人馬一体が理想。馬は後ろ足で蹴って推進力を出している。後ろに荷重がかかり、そこにトルクをかけて前へ進むのは自然の摂理。だから後輪駆動はいい。でも、馬の動きをもっとよく観察すると、実は前足でも地面を蹴っているし、後ろ足でも舵を切っている。だから四輪駆動と四輪操舵が必要。これがアテーサ※1とハイキャス※2というわけです。こんな説明されると、みんななるほどってなるでしょう(笑)。

6代目スカイライン。通称「ニューマン」「鉄仮面」。ポール・ニューマンを起用したTVCM、後期型のラジエターグリルのないフロントフェイスがその由来。5ドアハッチバックも存在した。(1981-1985年)

※1 正式名称ATTESA E-TS(アテーサ イーティーエス)。日産自動車が開発した電子制御トルクスプリット四輪駆動システム。Advanced Total Traction Engineering System for All  Electronic – Torque Splitの略。
※2 HICAS (ハイキャス)。日産自動車が開発した電子制御4輪操舵システム(4WS)。High Capacity Actively Controlled Suspensionの略。

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まさか桜井さんがスカイラインの開発を手放すとは考えてもみませんでした。初代からスカイラインに関わってこられて、途中で他の車種も担当していましたけれど、基本的にはずっとスカイラインと共に歩んできた人です。「スカイラインはオレの分身だ」というようなことを言っていましたし。だから彼が病気になって、「しばらくお前がやれ」と託されても自分はピンチヒッターだと思っていた。それなのに、戻ってきたら「後はお前に任せる」と。正直言って、やりたくなかったです(笑)。あの桜井眞一郎の後だし、スカイラインはいろんな意味で難しいクルマ。でも同時に、他の人がやることになって変なスカイラインになったら困るとも思ったんです。

「セブンス」
7代目スカイライン。通称「セブンス」。発表直後は4ドアセダンと、センターピラーのない4ドアハードトップの2タイプだった。後にワゴンや2ドアクーペが追加された。(1985-1990年)

自分でやるならスカイラインらしいスカイラインにしたい。しかし世はFF全盛期で、FRへのこだわりが実現しにくい環境でもあった。それに、スカイラインというクルマはお客様の期待値がもの凄く高い。うまく出来て当然のようなところもあった。実際に自分でまとめることになって、あらためて桜井さんは苦労していたんだなと痛感しました。
お客様の期待値だけでなく、スカイラインというクルマをひとつのブランドにまで押し上げたのは、やっぱり桜井さんの功績に他ありません。スカラインを通して多くの技術者を育て、日本の自動車技術の発展に寄与された、偉大なエンジニアだったと思います。桜井眞一郎という人は。

「R32」
8代目スカイライン。桜井から伊藤氏に全権が委任されて一から開発された初めてのモデル。「GT-R」が久しぶりの復活となった。(1989-1993年)

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語る人:山口京一(自動車ジャーナリスト)
「初めてきちんと話をしたのは、R380を富士スピードウェイで走らせる時でした」と語るのは、自動車ジャーナリストの草分け的存在である山口京一氏。桜井眞一郎を古くから知り、技術的側面からも多くを語り合ってきたという。ジャーナリスト目線で見た、エンジニア・桜井眞一郎はどういう人物だったのだろう。

桜井さんに初めてお会いしたのは、確か二代目スカイライン(S50)のGT-B(S54)の試乗会(1964年)だったと記憶しています。でもその時は挨拶程度。しばらくしてR380のお披露目があって、ようやくちゃんと話ができました。

無響室での桜井眞一郎 (1981年)

桜井さんの印象ですか。とにかく、ものすごく丁寧にこちらの質問に答えてくれる人だと驚きました。というのも、その頃の自動車メーカーのエンジニアのみなさんは、ジャーナリストなどという怪しい職業の人間があまり好きではなかったようで(笑)、「そばに寄るな」「話しかけるな」というオーラを出していて、質問してもろくに答えてくれなかった。でも桜井さんだけは違ったんです。こちらの些細な問いかけに対しても、じつに誠実に分かりやすく応じてくれました。R381が登場した際にも、可変ウイングについて聞いたら「これはそもそも、航空機のフラップからヒントを得たんですよ」なんて、資料に書いていないことまで教えてくれた。これは私の経験ですが、後世に名を残すようなエンジニアというのは、こういうタイプの人が多いですね。

「2代目スカイライン」
2代目スカイライン。桜井は日本GPでの優勝を目標としたマシンの開発チームの主任を務める。後に発表された6気筒エンジンを搭載する「2000GT」は、「羊の皮を被った狼」と言われた。(1963-1968年)

彼に一度、ロングインタビューをしたことがあるんです。生い立ちからその当時に至るまで、とても詳しく話してくれました。子供の頃は病弱な体質で、不憫に思った両親が犬や猫や山羊など、いろんな動物を飼ってくれて、それが桜井少年の友達だった。動物と戯れるうちに彼は「動くモノ」への感心が高まり、人間の手によって作られる「自動車」にも興味を持つようになったそうで。ところが桜井さんのお父様は著名な漢学者で、彼に後を継がせようとしていた。自動車の道に進むことを決めていた彼は、直感的にクルマ作りには計算が必要だと思い、数学ばかり勉強する。就職の時期になるが自動車メーカーからの求人はなく清水建設へ入社。1年後には係長職まで昇進するものの自動車への夢は捨てきれず、1952年にプリンス自動車へ転職することになったそうです。

「R380」
プリンス自動車工業在籍中の桜井が中心となって開発が進められたレーシングカー。後に日産と合弁し、車名が「ニッサンプリンスR380」となる。1965年に第1号車が完成。

当時のプリンスにはエンジニアがたった10人しかおらず、何でもやらされたみたいですね。でも自動車のことはほとんど何も知らなかった桜井さんは、自力で猛勉強する。彼がとても博識で、生産技術や材料工学のことまで熟知していたのは、こうした経験があったからなんですね。人に分かりやすく丁寧に説明するには、周辺の事まで正しく理解していないとできないこと。そんなご苦労があったことを知って、ああなるほどと膝を打ちました。

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桜井さんという人は合理的にモノを考え、そして情熱的に取り組む人でもありましたね。ヨーロッパでF1のベルギーGP(1962年)を観戦、レースの世界に感銘を受けた彼は、帰国すると間もなくレース車両の設計主任も任されることになる。第2回日本GPではグロリアとスカイラインを投入し、両車での表彰台を目論んでいた。桜井さんは、1.5リッターのスカイライン(S50)では鈴鹿サーキットのスプーンでの立ち上がりでライバルに離されると予想。そこでS50のシャシーを200mm延ばし、そこにグロリア用の6気筒エンジンをどうにか詰め込んだ。上司からは「ホモロゲーションが取れるだけの台数を作ればよい」と言われたが「いいえ、必ずやこういうクルマが売れる時が来ます」と突っぱねる。これが名車スカイラインGTの生まれた瞬間だったのです。合理的で情熱ある桜井さんらしいエピソードではないでしょうか。

「R381」
1968年の日本GPに参戦。最大の特徴は桜井が考案した可変式リヤウイングを装備している点。左右に分割されたリヤウイングは、車体の傾きに応じて個別に作動して姿勢を安定させるほか、ブレーキング時には両方を立ててエアブレーキの役目も果たした。

桜井さんは“理屈っぽい”というか、理屈抜きで語ることを嫌う人でした。「物事はまず“理”にはめて考えたい。クルマの場合なら、理屈で解析できるところまで解析して、その上で初めてじゃあどうするか、を考えます」と、私がインタビューした時にも語っていました。部下に厳しい、あるいは部下からは恐れられていたという伝説は、彼のそんな性格ゆえのことだったのでしょう。それじゃ、理屈ばかりのガチガチのエンジニアだったかといえばそうでもない。非常に文化的であり、世の中の動向や流行にも敏感な人でした。

「2000GT」
3代目スカイライン。通所「ハコスカ」。桜井が開発責任者として初めて携わったスカイライン。プリンス自動車工業が日産と合併して初めて登場したスカイラインでもある。(1968ー1972年)

“ケンメリ”の辺りから、スカイラインはそれまでの走りをセールスポイントにした「真面目な」クルマから、ファッショナブルな路線へ転換した。ケンメリが大ブームになったのも、当時としては珍しい、でも若者が求めていたいわゆるデートカーの要素を持っていたからです。ハンドリングはもちろん悪くなかったけれど、スカイラインに乗っていれば、男女の仲がうまくいくみたいな雰囲気が当時はありましたからね。CMで「愛のスカイライン」なんて言われたら、そりゃその気になっちゃう(笑)。あのキャッチコピーを作ったのは桜井さんではなかったらしいですが、そういう方向性を打ち出したのは彼でした。スカイラインというクルマだけでなく、それを取り巻く世界の演出作りにも長けていた人だったんです。

「ケンメリ」
4代目スカイライン。通称「ケンメリ」。このモデルから、テールランプが丸型4灯となる。

「愛のスカイライン」というキャッチコピー、あれは桜井さんのスカイラインに対する“愛”という意味も込められていたんじゃないでしょうか。

語る人

伊藤 修令 / Naganori Ito
1959年広島大学工学部を卒業後、プリンス自動車の前身である富士精密工業へ入社。その後はスカイラインだけでなく、ローレルやレパードの開発にも携わる。入社当時から桜井眞一郎の傍らで過ごし、絶大なる信頼を得て「桜井眞一郎の一番弟子」と呼ばれていた。彼が引き継いだ7代目スカイライン(R31)はその時点ですでに開発の終盤を迎えており、設計統括としてイチから担当したのはR32が最初のモデルである。

山口 京一 / Kyoichi Yamaguchi
1960年代から自動車ジャーナリストとして活躍。『カーグラフィック』をはじめとする国内の自動車専門誌のみならず、イギリス『モーター』、アメリカ『ロード&トラック』、オーストラリア『ホイールズ』などにも寄稿。80年代から自動車技術者協会の機関誌『Automobile Engineering International』アジア担当エディターとなり、日本の自動車技術を世界に発信する。世界の自動車メーカーのボードメンバーと、ファーストネームで呼び合える唯一の日本人ジャーナリスト。

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LEGEND 04 | 桜井 眞一郎