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日産 童話と絵本のグランプリ
第32回(2015年度)入賞作品
第32回童話の部・大賞 (※掲載している作品は受賞時点のものです。出版作品とは異なる場合があります。)

日曜日の小さな大冒険 (出版時に「日曜日の小さな大ぼうけん」に改題)
作/愛川 美也

 ピンチは突然やってくるって本当だ。しかも今この家にはぼくしかいない。つまりぼくは、このピンチに一人で立ち向かわざるを得ないのだ。ああ、ついさっきまではあんなにのんびりと快適な日曜日だったのに。
 最初に目が合った時は、バッタかと思った。その時に「きゃあ!」と女子みたいな悲鳴をあげてしまったことは一生の秘密だ。でもだんだんと胴体が姿を現すと、事態は想像以上だった。バッタなんかじゃない。カマキリだ。ぼくの家の中にカマキリがいる。ぼくは悲鳴すら出なくなってしばらく息が止まった。
 小学生の男子は昆虫が好きだろう、なんて思い込みは大きな間違いだ。うちには昔から虫かごも虫取り網もないし、虫の図鑑は星や花の図鑑に比べて明らかにきれいなままだ。ぼくは昔から、虫が大の苦手なのだ。中でもカマキリは、毛虫なんかと並んで特に怖い虫のひとつだ。まず目つきが怖い。そのうえ手がカマだなんてもうモンスターじゃないか。
 今までも家にカナブンやクモやゴキブリなんかが入って来ることはあったけど、全部父さんか母さんが追い出してくれていた。でも父さんは夜まで仕事だし、母さんもさっき買い物に出かけたばかりだから3時間は帰ってこないだろう。だからこそぼくは一人でごろごろマンガを読もうと、一番日当りのいいこの和室にやってきたのだ。まさかその和室で、こんな強敵と出くわすなんて少しも思わずに。
 ぼくは呼吸が止まっていたことに気付いて、そーっと息を吐いた。カマキリは、和室に置いてあるキャスター付きハンガーラックにいる。母さんが出かけにとりこんでかけて行った洗濯物についてきたに違いない。銀色のパイプに隠れるようにへばりつき、洗濯物のかかったハンガーにまで細い足をかけている。きっと木の枝と勘違いしているんだ。
 カマキリはぼくが見えているのかいないのか、こちらを向いたままじっと動かない。ぼくはできれば見たくなんかないのに、怖くて目が離せない。だっているのを知ってしまった以上、見失ったほうがおしまいだ。誰も気づかないまま家のどこかに住みついて、卵なんか産んじゃって、ある日突然小さなカマキリがどこからかうじゃうじゃ出てきたりしたら…考えただけで恐ろしい。今のうちに何とかして外に出さないと。ぼくは目を離せないまま、頭をフル回転させて作戦を考えた。
 作戦一。大きめのビニール袋に閉じ込めて、そのまま外へ出す。うん、これくらいならぼくにもできるかもしれない。幸い、カマキリは少しづつ捕まえやすそうなラックの角に向かって歩いている。ぼくはカマキリのスキをついてさっと走り、台所に母さんが集めているスーパーの袋の中から大きそうなものを探し出した。ちょうど角に来たタイミングをねらってカマキリをラックの角ごとビニールで包み、さっと口をしぼって外で開ける。よし。想像ではうまくいった。しかしいざ袋を広げて構えてみると、これは思った以上の接近戦だ。もしうまく口がしぼれずに、暴れたカマキリがぼく目がけて飛び出してきたら?それに自慢のカマでビニールなんか簡単に破くかもしれない。ダメだ。この作戦は危険すぎる。
 作戦二。何か長い棒の先に止まらせて、棒ごとベランダへ出す。うん、これなら離れて対決できる。でも長い棒なんてあったかな。ああ、学校の竹ほうきかデッキブラシがここにあればいいのに。うちはせまいマンションだから、母さんの掃除は掃除機だけでことが足りてしまうのだ。そうだ!掃除機!掃除機の筒は長いぞ。ひらめいたのはいいけれど、掃除機までの道は遠い。たしか靴箱の横の物置の中だ。ビニール袋のようにさっと取れるわけではない。ぼくがガタガタと物置から掃除機を取り出して戻ってくるまで、カマキリはこのままじっとしていてくれるだろうか。戻ってきたらどこにもいなくて、いきなり後ろから飛びかかられたりしたら?そう考えると、なかなか取りに行く決心がつかない。
 何もできずにカマキリとにらみ合って、もう30分以上経った。このまま母さんが帰ってくるまでハラハラ待っているしかないのだろうかと泣きそうになったその時、すばらしいアイデアがひらめいた。そうだ。このハンガーラックはコロコロ簡単に動かせるようになっている。棒に移したりせずに、このままベランダに出せばいいんだ!これは我ながら名案だ。まずは外でまた洗濯物にかくれてしまわないように、ラックにかかっている洗濯物を全部はずし、ベランダへの窓を開けてラックを一気に外へ出す。そして窓を閉める!あとはカマキリが自分で飛んでいくのを待つだけだ。なんというナイスアイデア!
 ぼくは早速実行に移った。カマキリがいるのと反対側にかかっているものから順番に、洗濯物をそーっとはずして畳の上に置く。カマキリは後ろ向きのままおとなしくしている。それにしても近い。後ろ向きとはいえ、こんなにカマキリに近づいたのは初めてだ。カマキリってこんなに大きかったっけ。いや、怯んでいる場合じゃない。何しろやつはゆっくりとラックの角に近づいているのだ。先がなくなったら飛ぶかもしれないし、そのままラックを下に進もうとして畳に落っこちてしまうかもしれない。そうなったらこの作戦はもう失敗だ。最大の勇気と細心の注意で、ぼくは6つの洗濯物を外した。よし、ここまでは順調だ。7つめは、ハンガーにカマキリの足がかかった状態だ。判断に迷うところだが、とりあえずこのままにしておこう。ぼくは冒険はしない堅実派なのだ。
 鍵を開け、そーっとベランダへ出る窓を開ける。窓から気持ちのいい風が吹き込んだ。その時、予想外の事件が起きた。なんとそれまでたまに前へ進むだけでじっとおとなしくしていたカマキリが、体を起こして立ち上がったのだ!しまった!やはり自然の生き物は自然が恋しいんだ。気持ちのいい風がきたら、飛んでいきたいと思うものなのだ。ぼくは慌てて窓を閉め、息を止めてカマキリの動きを見守った。今にも飛び立ちそうなカマキリは、そのまま細い足でリズミカルに体を左右に揺らしている。この動きが何を意味しているのかまるでわからない。飛び立つための準備運動だったらどうしよう。ああ、こんなことならもっと虫の図鑑も読んでおけばよかった。ぼくの焦りを知ってか知らずか、カマキリは踊るように何度か体を揺らし続け、少し前へ歩いてまた元のようにじっとしゃがみ込んだ。と同時に、ぼくも畳にしゃがみ込んだ。危なかった。心臓が止まるかと思った。この作戦も失敗なのだろうか。いや、あきらめちゃダメだ。あんなに近くで洗濯物をはずすことだってできたのだ。きっとやり遂げられる。幸い、少し前に動いたことでさっき残した洗濯物からも足がはずれている。ぼくは今までで一番の注意を払って、最後の洗濯物を外す。よし、これでハンガーラックにはもうカマキリ、お前だけだ。ぼくは考えた。先に窓ギリギリまでラックを動かしておき、こいつが飛び立つより早くラックを外へ出せばいい。うん、これしかない。外に出しさえすれば、むしろ飛んでくれた方がありがたいのだ。
 両手を広げてラックの両端を持ち、見つからないようになるべく低く身を隠しながら、顔はカマキリを見張ったまま、気づかれないようにそーっとそーっとラックを移動させる。手がじんわりと汗ばむ。畳半分くらいの短い距離が、果てしなく続くお城の廊下のようだ。窓ギリギリの畳のヘリまで来ると、ぼくはゆっくりと手を放した。大きく静かに深呼吸をして、覚悟を決める。時間がない。カマキリはもう角まで来てしまっているのだ。
 ぼくは思い切って窓を開け、両手でラックをつかんでベランダに出した。窓の溝にタイヤが引っかかって、ガタガタとラックが揺れた。するとカマキリはまた大きく立ち上がる。
 「待ってカマー!もう少しだけ!」
 ぼくはカマキリに向かって叫びながら、自分もベランダに飛び出して何とかラックを安定させた。カマーはしきりに体を揺らしている。ぼくは急いで外から窓を閉め、反対側の窓を開けて部屋の中へ逃げ込んだ。なぜかとっさに「カマー」と呼びかけた自分がおかしくて、ぼくは少し笑いながら慌てて窓を閉めた。きっちり鍵まで閉め、ガラス越しにカマーの様子を見つめると、さっきまであんなに飛び出しそうだったのに、動く気配もない。これは長期戦になりそうだ。不思議なことに、この安全な場所からなら少しかわいく見える。少しとはいえ、虫がかわいいなんて初めてだ。カマーは外の風に吹かれながらすっかり落ち着いてしまっている。きっと居心地が良すぎるんだ。そう思ったぼくは思い切って窓を開けた。もちろん遠い方から。手を伸ばし、ラックをゆすってみようとつかんだその時だ。
 「あ!」
 あまりに一瞬のことで、ぼくはカマーを見失った。慌てて見回すと、少し離れたところに見える電信柱に、似つかわしくない緑色がくっついている。ぼくは泣きそうなほど胸がいっぱいになった。やった。ぼくにもやり遂げられた。あと、ちゃんと見送れて良かった。
 カマーはそんなぼくが見えているのかいないのか、今度は電信柱を上へ上へと登っている。もう一度会いたいなんて思わないけれど、それでもぼくはいつまでもカマーを見送った。
「ただいまー。」
 母さんの声だ。いつの間にそんなに時間がたったのだろう。
「あらやだ。こんなにちらかして。」
 そうだった。キッチンにはビニール袋を、和室には洗濯物とマンガを、ばらまいたままだった。部屋にあるはずのハンガーラックもベランダにある。でもこれらはどれもぼくの栄誉ある戦いゆえだ。話せば母さんだってわかってくれるさ。ぼくにはマンガ以上の大冒険だったのだから。ぼくはもう一度だけ電信柱を振り返り、胸を張って部屋に入った。

おわり


愛川 美也
37歳 派遣社員 千葉県船橋市
<受賞のことば>
書くことを薦めてくれた友人と夫に、そして我が家に迷いこんだカマキリに、心から感謝します。「ピンチは突然やって来る」も本当ですが「ピンチはチャンス」も本当ですね。選んでくださった皆様や受賞を喜んでくれた方々に恥じぬよう、これからも頑張ります。本当にありがとうございました。

短評
虫ぎらいのぼくが一匹のカマキリを、家の外に追い出す三時間――そのあたふたした懸命ぶりをみごとに活写しましたね。電信柱を上へ登っていく緑のカマー、ことカマキリを、いつまでも見送るぼくに、大きな拍手です。
(あまん きみこ)


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