1933年12月26日、戸畑鋳物・自動車部からダットサン製造に関する一切を引き継いで、『自動車製造株式会社』創立。1934年6月1日、『日産自動車株式会社』に改称。創業者は「日産コンツェルン」の総帥、鮎川義介 (アイカワ ヨシスケ)。 彼は、年間1万〜1万5千台を製造する遠大な計画を実行に移そうとしていた。

1935年4月、日本で最初の量産工場と言われた 横浜工場から小型自動車『ダットサン』がオフラインした。同 年、オーストラリアにもKD輸出され、“旗は日の丸”“車はダットサン”と、言うほどに躍進する近代日本工業のシンボルとなった。

VTR:1935年、日産・横浜工場、ダットサン(小型乗用車/トラック)の 生産ライン(819KB)

ところで、当社の歴史のルーツは、1911年橋本増治郎が東京・麻布に設立した『快進社自働車工場』に遡る。彼 は日本の自動車製造はじまりのパイオニアであった。

1914年、彼独自の設計・製造による箱形自動車が完成し、翌年からDAT自動車(脱兎号)と命名されて発売さ れた。DATとは、資金協力者の田健治郎・青山禄郎・竹内明太郎のイニシャルを並べたものである。

1919年、米人技師ウィリアム・R・ゴルハム設計のゴルハム式三輪車製造のため、大阪に『実用自動車製造株式 会社』が設立された。機械設備、自動車部分品、材料などは米国に発注して輸入したもので、当時としては近代的な自動車工場であった。

快進社と実用自動車製造は1926年に合併しダット自動車製造となり、1931年に戸畑鋳物株式会社(社長:鮎 川義介)の傘下に入り、2年後には、日産自動車の創立へとつらなる。

日産自動車はフォード、GMなみの大型乗用車を製造するため、1936年に米国グラハムページ自動車会社から設計図、設備などを購入したが、運悪く戦時色が強まり軍用トラックの生産に移っていった。戦時中は陸軍練習機や魚雷艇のエンジンも製作した。

VTR:1937年、日産・横浜工場、ニッサン(大型トラック/バス)の生産 ライン(1.1MB)

 

空襲は免れたが、横浜工場の過半を約10年間、占領軍が接収。戦争中、自動車の配給を独占していた「日本自動車 配給会社」が解散、有力地元ディーラーがトヨタ系に組織化されたこともハンディとなった。

1945年にニッサントラック、1947年にはダットサン乗用車の生産再開、労使紛争も絶えず、1953年に起 きたストライキに対抗する会社側の工場閉鎖「100日闘争」の反省より近代的な労使関係が生まれた。

戦時中の技術的空白を埋めるため、1952年オースチン社と技術提携の契約に調印。翌年、オースチン国内組立第 1号車がオフライン。1958年、当時世界で最も過酷な豪州ラリーにダットサン210型が出場、みごとにクラス 優勝した。1960年には業界初のデミング賞を受賞。次第に飛躍への道が整備されていった。

VTR:1958年10月、東京・羽田から吉原工場まで凱旋パレードに出発(1.3MB)

 

1959年のブルーバード、1960年のセドリックは市場の人気を独占し、日本のモータリゼーションを急速に発展させた。1966年のサニーは日本にマイカー時代の到来を告げ、大衆車市場を急成長させた。資本自由化に備えて1962年、追浜、1965年、座間に新鋭工場を稼働させ、1966年『プリンス自動車工業株式会社』と合併 。名車「スカイライン」「グロリア」と中島・立川飛行機の流れを汲む優秀な人材を戦列に加えた。

モータリゼーションの進展は交通事故の増加、大気汚染の問題をもたらした。当社は1971年以降安全実験車(ESV)を開発。数々の安全機構を販売車両に採用した。排出ガス規制は米国マスキー法の厳しい数値に対して達成困難視されたが、三元触媒方式を本命に解決。これを機会に自動車の電子・材料技術が格段に向上した。

 

1970年代の二度にわたる石油危機により、燃費と品質の良さで日本製小型車の輸出が急増。1973年の米国環境庁(EPA )の燃費テストでサニーは第1位となり、「DATSUN  SAVES (ダットサンは節約しま す。)」と誇らしくうたい、人気を集めた。

米国のメーカーは小型車への対応が遅れ、工場閉鎖、レイオフが相次ぎ、社会問題となった。保護主義のムードが高 まり、輸入規制、現地生産が要請された。この間、燃費向上のための高張力鋼板、エンジンの燃焼制御技術の開発からCAD/CAM、産業用ロボットの開発まで、「技術の日産」として先端技術分野の先駆的役割を果たしてきた。

 

1959年に台湾・裕隆社でKD生産を開始。1961年に「メキシコ日産自動車会社」を設立して海外生産を展開。さらにはグローバルな戦略拠点として、1980年「米国日産自動車製造会社」、1984年「英国日産自動車製造会社」を設立。現在では世界17ヶ国に車両生産拠点を有している。海外生産に加え、デザイン・研究などの 「開発の現地化」「トップマネジメントの現地化」、さらには、開発・生産・販売・資金調達・部品の相互補完など事業全般を統括する地域本社(北米と欧州)による「意志決定の現地化」のレベルまでグローバル化を進めてきた。

一方、国内では、1975年に九州工場を稼動させ、1992年には同工場の敷地に最新の自動化技術を導入した新工場を加えた。更に、1994年に、最新鋭のエンジン製造工場として、いわき工場を開設した。商品面では、1987年1月、Be−1誕生、翌年1月、シーマを投入し、パイクカー・高級パーソナル乗用車という新しいセグメントを開拓した。

VTR:1993年、いわき工場、エンジン部品の自動組立ライン(1.2MB)

近年ますます関心が高まって来た地球環境問題に対しては、クリーンな動力源の開発、資源のリサイクルなどに積極的に取り組んできた。’97年以降、直噴ガソリンエンジン、直噴ディーゼルエンジン搭載車を次々と発売。また、ベルト式無断変速機「ハイパーCVT」も積極的に採用拡大しており、’99年11月には、FR大排気量車用無段変速機『エクストロイドCVT』を世界で初めて市販車(セドリック/グロリア)に搭載した。なお、「ティーノハイブリッド」および2人乗りの電気自動車「ハイパーミニ」は、2000年初頭から市販している。

‘99年3月27日、日産自動車とフランスのルノーは、両社が互いに利益ある成長を達成するため、グローバル・パートナーシップに関する合意に調印した。

‘99年10月18日、全世界で継続的に利益を出し、成長し続けるための包括的な再建計画「日産リバイバル・プラン(NRP)」を発表。2001年度末で、予定より1年早くその 目標を達成し、過去最高の営業利益を上げた。NRPのもとでは、購買コスト削減や 負債の削減などの改革の他に、商品力の向上への取り組みも着実に行い、2002年1月 にはアルティマが北米カーオブザイヤーを受賞した。

2002年4月からは、新たな事業計画「日産 180」に取り組んでおり、3年間でグロー バル販売台数を100万台増やすことをめざしている。